<明石市>
統計135度の日本標準時子午線が通る街として有名な明石。神戸市の西側に位置し、大阪湾と播磨灘を結ぶ明石海峡に面することから、古くから風光明媚な場所や交通の要衝として知られている。江戸時代には、城下町が築かれ、明石駅北側にある明石城跡を整備した県立明石公園に往時の面影をうかがえる。
明石市役所 明石市中崎1丁目5-1
電話番号 078-912-1111 市の花 きく (高貴、高尚) |
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人丸花壇
明石へ食の愉しみを求めて。全18室の隠れ家的お宿
鯛や蛸など明石海峡で育つ豊かな海の幸と、近郊の旬の野菜等、厳選素材に12名の料理人が腕を奮う。食通を唸らせる老舗の味を体験!総檜の大浴場と御影石・大理石の庭園風呂は天然温泉(加温)。露天も有。 |
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グリーンヒルホテル明石
明石駅に近く、緑豊かな明石公園前!
古くは源氏物語にも登場する、子午線の通る城下町。明石城外堀に面するこのホテルは、ゆったりした客室に13時イン&11時アウトとのんびり滞在型。魚の棚商店街すぐそば、ポルトバザールへも車15分と便利。 |
【その他のホテル・旅館】
旅館 権現荘
/ 西明石リンカーンホテル
/ 明石キャッスルホテル
/ 栄家旅館
/ ホテルキャッスルプラザ
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<明石市>
■ 橋の科学館
明石海峡大橋開通と同時にオープンした橋のデータが満載の博物館。
■ 明石市立文化博物館
アカシゾウの復元模型や明石原人の資料、明石ゆかりの源氏物語の紹介など。
■ 時の道
明石城(喜春城)と天文科学館を結ぶ緑のプロムナード。
■ 明石市立天文科学館
東経135度日本標準時子午線の真上に建つ天文学をテーマとする博物館。
■ 明石公園(明石城)
明石城跡を中心とした総面積55万平米の広大な都市公園で、桜、紅葉の名所。
■ 魚の棚商店街
"魚のまち"を代表する商店街。魚屋を中心に練り製品や塩干物を扱う店が約100店集まる。
■ 子午線通過地標
明石郡小学校長会の人々が日本標準時子午線の重要性を認識して建てた標識。
■ 江井島酒蔵群
「西灘」と呼ばれていた江井島。一帯は、300年以上も前から酒造りがさかん。 |
<明石市>
■ 柿本神社
万葉歌人、柿本人麻呂を奉っている古社。安産火除けなどのご利益がある神社として有名。
■ 朝顔光明寺
浄土真宗月池山光明寺。境内には、「光源氏・月見の池」というロマンティックな史跡。
■ 無量光寺
文学にゆかりの深い寺で「源氏物語」の光源氏の着き井寺として、源氏屋敷として登場。
■ アカシゾウ化石発見地
「屏風ケ浦」の断崖から100万年前のアカシゾウの化石を発見。
■ 明石原人化石発見地
アカシゾウ化石発掘地の200メートル西に位置。「明石原人」発見地。
■ 光触寺
真宗寺院。豊臣秀吉の三木城攻めの時は陣が置かれたと言い、境内には「太閤腰掛けの松」。
■ 善楽寺
源氏物語に登場する明石入道の浜辺の館があったところだと言われている。
■ 亀の水
人丸山から涌き出る霊泉。播磨三名水のひとつ、「長寿の水」とも呼ばれる。 |
● 明石と宮本武蔵
明石城築城と同時に進められた城下町の町割り。この町割りを立案し、采配を振るったのが「剣豪・宮本武蔵」だといわれています。武蔵は、職人町・商人町を区別し、城下の侍の生活に支障がないよう、また合戦時にろう城しても自給自足できるよう、配慮した町割りを行いました。
● 明石をうたった歌
柿本人麻呂をはじめ古来から多くの歌人達が、明石の雄大で、暖かく人を包み込む自然に心を引かれ、歌を詠んできました。
「天離る、夷の長道ゆ、恋いひ来れば、明石の門より大和島見ゆ」 柿本人麻呂
「この海、見たらんこそ、ものには変えられじ」 松尾芭蕉
● 明石の名産
■ いかなごのくぎ煮
明石の春の風物詩。最近は全国ブランドに。小さなイカナゴを醤油で煮込んで作る。見た目がクギによく似ているため、この様なネーミングがつきました。
■ 明石焼き(玉子焼き)
明石では、玉子焼きと呼ばれる。ふっくらと焼き上げた「玉子焼き」をウス味のダシにつけて食べる。具は、もちろん明石ダコ。
● 明石ゆかりの人
■ 中部幾次郎 (1866-1946)
大洋漁業の創業者。明石東魚町の鮮魚運搬卸業「林兼商店」の次男に生まれて若くして家業を継ぎ、日本有数の水産会社に一代で育て上げる。
■ 高山右近 (1552-1615)
12歳でキリスト教の洗礼を受け、22歳で高槻城主に。羽柴秀吉に戦功を評価されて、天正13年(1585)に明石に転封。林崎に「船上(ふなげ)城」を築きます。
■ 菅原道真 (845頃-903)
平安前期に、学者、政治家として活躍。「大鏡」には、大宰府へ下る途中で明石に立ち寄った道真の様子が記されています。
■ 梁田蛻巌(やなだぜいがん) (1672-1757)
9代目明石藩主、松平直常に招かれて明石藩おかかえの儒者に。自分の屋敷の中に郷学「景徳館」を開き、30年の長きにわたって藩士子弟の教育にあたりました。 |
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