神戸電鉄 有馬温泉駅から南西に約8分歩くと、愛宕山 (標高462.8m) の山腹に寺社の集まる寺町と呼ばれる地区があります。
駅前から「ねね橋」に向かって川沿いに歩き、太閤通りへ → 太閤通りの突き当たりを左折し、湯本坂へ → 「金の湯」の前で右折し進むと、左手に寺町への階段が見えます → 階段を上って、そのまま進むと、「極楽寺・太閤の湯殿館」に到着です。
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1995年の阪神・淡路大震災で損壊した極楽寺の庫裏(くり:寺の調理場)の下から、安土桃山時代の遺跡が発掘されました。
調査の結果、秀吉が造らせた「湯山御殿」 の一部と見られる浴室や庭園の跡であることが確認されました。
湯殿の存在は昔から言い伝えられていたそうですが、古文書や絵図面などの文献資料はありませんでした。
今回、極楽寺の庫裏修復の際に、その地下から400年の時を経て、数々の遺構や出土品が出てきたため、言い伝えが正しかったことが、確認されました。
湯山御殿跡は、1997年10月に神戸市指定文化財の史跡に指定されました。
これらの遺跡と出土した瓦や茶器などを保存・公開するとともに、 秀吉が愛した有馬温泉の歴史と文化を紹介するため、 1999年4月にオープンしたのが「太閤の湯殿館」です。
館内には「蒸し風呂」と「岩風呂」の遺構をそのまま取り込んで展示してある他、御殿での生活をしのばせる焼き物や瓦などの出土品、復元した龍の飾り瓦、さらには秀吉と有馬温泉の深い関わりを示す資料などが展示されています。
内装には、安土桃山時代の「ふすま絵」や「飾り欄間(らんま)」のレプリカが取り入れられ、太閤秀吉の “夢の跡” を現代に再現しています。
寺町の中心に、温泉寺・念仏寺・湯泉神社に囲まれて極楽寺があり、その奥に太閤の湯殿館があります。
秀吉が造らせた「湯殿」の一部が復元されている資料館に入ってみました。
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庭園は地下1mに埋設保存している遺構の真上に復元したものです。
秀吉もお風呂に入りながら、この風景を見ていたのかと思うと、400年の歴史を飛び越えて、親近感を感じます。
昔は、この庭園の芝生の部分に御殿があったそうです。
庭園では、園池、庭木の移植跡、建物の基礎用石垣などが確認されています。
花崗岩と凝灰岩を組んで造られた園池は水深が浅く、山腹から筧(かけひ)で清水を引いてきて、小さな滝で池に注ぐようになっており、茶の湯に使用する水をこの池で汲んだと想定されています。 |
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入館して最初に目が奪われるのは、正面に展示されている龍の飾り瓦です。
本物は破片の形で出土されており、展示されているのは復元品ですが、38x162cmと、迫力満点です。
65軒もの家を立ち退かせて造ったという記録も残っていますが、屋根の飾りにこんな立派な瓦を使用していたということは、 太閤の権勢を示すような、贅を尽くした御殿だったと思われます。
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秀吉の時代のお風呂は、もっぱら、今で言うサウナで、蒸気を小屋の中に引いて温まっていたそうです。
ここでは、本物の遺構の上に風呂場が再現してあります。
この遺跡では、2種類の蒸し風呂が発見されていますが、浴室に蒸気をこもらせるタイプが復元・展示されています。
この浴室は半地下式(保温性を高めるための工夫)で、広さは約1坪です。
蒸気を十分こもらせるように、天井を低くしてあり、かがみ込んで入るような構造だったと言われています。
粘土状の床面に砕石を敷き詰めて、その上に、スノコを敷いて寝そべったり、座ったりして、入ったという当時の雰囲気がよく分かります。
もう1種類の蒸し風呂は、粘土を固めた床面の8cm下に直径約6cmの竹製パイプを埋め込んで、それに蒸気を通して浴室を暖めるという方式です。 |
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蒸し風呂の南に隣接して岩風呂の遺構があります。
これは秀吉が病に倒れて、遂に入れなかった岩風呂です。
こちらは、現在のように、お湯に浸かるタイプのもので、水風呂(すいぶろ)と呼ばれていたそうです。
岩風呂の遺構は2種類あり、いずれも、周囲に柱穴が見られないところから、露天風呂か、または、使用時に周囲に幔幕を巡らすようなものであったと、推定されています。
二つの岩風呂は、それぞれ一辺が210cm、深さ65cmの方形で、底面は、砂地のままで酸化鉄が固く沈着しています。
南側の岩風呂では、筧で引かれたお湯が岩肌の裂け目から滝湯のように浴槽に流れ込む仕組みになっています。
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黒色の碁石だけが出土しました。
黒石は那智黒という石ですが、白石は朝鮮蛤が使われていました。
貝殻はカルシウムの固まりなので、酸性土の中に埋まっている間に溶けてしまって、一つも残っていません。
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軽石も出土しました。
丈夫なヒモを通した穴を確認できます。
秀吉もこれを使って、有馬の湯に入ったことでしょう。
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1599年2月2日、善福寺の住職で秀吉の幼なじみである大清宗灌が著したものを、水船屋久右衛門が書写したものです。
724年から記述したと伝えられていますが、現存する「有馬縁起」からは、1191年以前の記述が欠落しています。
秀吉が造らせた御殿や、1596年の大地震の様子、1598年、御殿の再建中に「奥の院」に新湯が湧出したのを秀吉が喜んで、その場所に新たな御殿の建築を命じたことなどを詳しく紹介しています。
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浴槽にお湯を溜めて、浸かるという入浴方法が一般的に普及するのは、江戸時代以降です。それ以前は、「風呂」というと、蒸し風呂のことで、貴人の慰安、または、治療や療養のために病人が訪れる場とされていました。江戸時代に入っても、旅館の内湯が普及するまでは、旅人も銭湯に行っていました。
秀吉が有馬で入浴した時には、下着か、浴衣のような簡易な着物を身に纏っていました。何も身に纏わずに入浴するようになったのは、江戸時代に銭湯が普及してからの習慣です。
蒸し風呂では、発汗効果をできるだけ高めるために、小屋の内部に菖蒲を敷き詰めたり、生木や常緑樹の葉を焚き物として使用していました。サウナと同様に、できるだけ汗を沢山かいた後で、懸け湯で汗を流して、サッパリするという方法を取っていました。 |
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この「湯殿館」では、映像を使って、有馬の歴史と秀吉当時の様子を紹介しています。
秀吉は大坂城の築城など大きな事業の前後に、たびたび有馬を訪れています。
文書に記録されているだけで、9回も湯治に来ています。
歴史上の人物にもストレスがあった様子が伺えます。有力な武将やその家族を湯治に招くなど、有馬温泉を「もてなしの場」としても活用していたようです。
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秀吉は、千利休や津田宗及らと、たびたび 茶会 を催しており、今でも毎年11月2日・3日に有馬大茶会が秀吉の遺徳をしのんで催されています。 |
1596年の慶長伏見大地震で有馬温泉も壊滅的な打撃を受けましたが、秀吉は、六甲川の付け替え工事や、泉源保護工事など、根本的な修復を命じ、その結果、江戸時代には「有馬千軒」と呼ばれる繁栄につながりました。
これが、行基・仁西とともに、有馬の三恩人と呼ばれる由縁です。 |
入浴の前後に、琴を弾いたり、和歌を詠んだり、今様を謡うなどして、湯治客をもてなす女性で、秀吉は20名の湯女に禄を与えて保護しました。
湯女の制度は、1883年に廃止されましたが、毎年1月2日の入初式には、有馬の芸妓さんが湯女の扮装で参加することが恒例となっています。 |
1583.
1584.
1585.
1585.
1590.
1591.
1593.
1594.
1594.
1596.
1598.
1598. |
8月
8月
1月
9月
9月
9月
9月
4月
12月
7月
2月
8月 |
秀吉湯治@
秀吉湯治A
秀吉夫妻湯治B、茶会を催す
秀吉夫妻湯治C、茶会を催す
秀吉湯治D、10月 茶会を催す
秀吉湯治E
(跡継ぎが死去、清水寺で菩提を弔った後、有馬に)
秀吉夫妻湯治F
秀吉湯治G、町屋65軒撤去し、御殿を普請
秀吉湯治H、御殿が竣工
慶長伏見大地震で御殿大破、湯屋・民家倒壊
温泉寺奥の院(現:太閤の湯殿館)に新湯が湧出し、
秀吉がそこに新御殿の普請を命じる
秀吉死去 |
9月 大阪城の普請開始
7月 関白になる
1月 利長死去、2月 利休切腹
8月 跡継ぎ誕生
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注:@〜Hまで9回の湯治が文献で確認されています。 |
631年 舒明天皇 入湯
647年 孝徳天皇 入湯
724年 僧行基が有馬温泉を再興、温泉寺などを建立
997年 和泉式部 入湯
1024年 藤原道長 入湯
1128年 白河法皇 入湯
1175年 後白河法皇・建春門院 入湯
1191年 僧仁西が有馬温泉を再興
1203年 藤原定家 計12回 入湯
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1385年 足利義満 入湯
1483年 蓮如 入湯
1491年 宗祇・肖柏・宗長が有馬で連歌を吟ずる
1517年 足利義稙 入湯
1583年 秀吉 計9回以上 入湯
1621年 林羅山 入湯
1805年 伊能忠敬 入湯
1813年 頼山陽 入湯
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