「桜」の語源
桜の語源についての定説はありませんが、古事記に登場する「木花開耶姫」(このはなさくやひめ)の"さくや"から"さくら"に転化したという説があります。また、"さくら"の「さ」は穀霊(穀物の霊)を表す古語で、「くら」は神霊が鎮座する場所を意味し、「さ+くら」で、穀霊の集まる所である依代 (よりしろ) を表わすという説もあります。
桜と日本人のかかわり
日本書紀には、神功皇后の頃、既に野生の桜が鑑賞されていたと書かれています。また、奈良の吉野山は古来、桜の名所となっており、7世紀後半、持統天皇は花見のために何度も吉野を訪れています。
しかし、万葉時代には、もっぱら梅を愛でる中国文化の影響を受けて、梅の花に人気が集ったため、桜が歌に詠まれることは余り多くありませんでした。
平安時代に近づくと、野生の桜を都に移植して鑑賞するようになりました。桜の花見の風習は、9世紀前半に嵯峨天皇が南殿に桜を植えて、宴を催したのが最初だと言われています。
桃山時代には、秀吉が吉野と醍醐で盛大な花見を催し、一般大衆も次第に花見を楽しむようになりました。
江戸時代に入ると、3代将軍家光が上野の寛永寺に吉野の桜を移植したり、隅田川の河畔に桜を植えたりしました。また、8代将軍吉宗が飛鳥山を桜の名所にしたことも有名です。江戸時代の前半までは、桜が一気に散る様子から武士には不人気でしたが、忠臣蔵の「花は桜木、人は武士」という台詞が流行ったため、武士の間でも桜を好むようになりました。育てやすいソメイヨシノが江戸末期に登場し、短期間に広まったおかげで、日本中で花見を楽しむようになったと言われています。
幕末の桜を救った人たち
江戸時代後期には、品種改良によって桜の新種が急速に増加し、江戸末期には約250種になったと言われます。ところが、明治維新後、無住となった大名屋敷や社寺の庭園が荒廃し、桜を含む名木の類が次々と伐採されたため、駒込の植木屋、高木孫右衛門がそれらの桜を自宅に集めて保存に努めました。
1885年、荒川の堤防が改修される際、堤防上に桜を植えたいという要望が村民から出ました。戸長の清水謙吾は、どこにでもあるソメイヨシノではなく、サトザクラ類の優れた品種を植えたいと考え、旧知の高木孫右衛門に頼んで、彼が集めた78種3225本の桜をそっくり堤防上に植えました。
しかしながら、荒川堤の桜は河川改修工事などのため次々と伐採され、1932年には52種555本にまで減りました。
最年少で桜の植栽事業に参加していた船津静作は、これらの品種の絶滅を恐れ、自ら育成した桜を全国各地に、さらには、米国ポトマック河畔やイギリスのケント州などにも送り出しました。
その後、荒川堤の桜は残念ながら絶滅しましたが、米国に渡った桜は生き残り、子孫を残しました。1981年、足立区政50周年の記念行事として、米国から35種約3000本の桜の苗木が里帰りし、足立区内に植えられています。