有馬ナビ
有馬の風土と歴史有馬温泉中心街の直ぐ南側に愛宕山公園がありますが、この山の中腹に有馬の氏神・温泉守護神として崇められている湯泉神社があります。草創期の祭神は、有馬温泉を発見したと伝えられる大己貴命 (大黒さま) と少彦名命 (医薬の神) でした。鎌倉時代に入って、熊野信仰の影響を受け、熊野久須美命も併せて三柱の神を祀るようになり、以後、有馬温泉鎮護三神と呼ばれています。
歴史は古く、日本書記 (720年)に舒明天皇・孝徳天皇などの参拝が記されており、また、「延喜式神名帳」(927年) にも有馬郡の大社として数えられています。その後、皇室や武将などから敬われ、有馬の温泉や町を守る神社として栄えてきました。元来は、山麓にある温泉寺 の境内にありましたが、100年ほど前に現在地に移されました。なお、この神社にある熊野曼荼羅図は、国の重要文化財に指定されています。
毎年1月2日に「入初式」が行われ、湯泉大神様と有馬の開祖である行基・仁西両上人に感謝するとともに、その年の初湯を神前に奉り、有馬温泉の繁栄と安全 を祈願します。これは、江戸時代から続いている神仏合同の古式豊かな祭典です。また、子授けの神としても有名で、有馬の湯に入り、湯泉神社で祈願すれば子 宝に恵まれると伝えられています。
中でも、玉鉾さま、阿福さまと呼ばれている子授けの御守りは全国各地より求められています。これは、平安時代末期の伊呂波字類抄という日本最古の辞書にも 記載されていますが、子宝に恵まれない人々が男形・女形それぞれの形を作り、夜陰ひそかに神前に献じて、子授けを祈願していたことから始まっています。
湯泉神社前の坂道を少し下ると、愛宕山の麓に温泉寺 (薬師堂) があります。奈良時代の初め、行基上人が有馬温泉を開かれた折に、薬師如来の像を刻み、堂を建てられて、724年に温泉寺を建立されたと言われています。 その後、鎌倉時代の初めに有馬温泉を再興された仁西上人を中興の祖と仰いでいる古刹です。元来は、真言宗の寺でしたが、後に黄檗宗となりました。1576 年に火災に遭いましたが、秀吉の正室、北政所によって再建されました。その後、再び火災に遭い、1782年に現在の薬師堂が建てられました。明治初めの廃 仏毀釈によって、温泉寺は廃寺となり、薬師堂だけが残されました。現在は、奥の院の清涼院を移し、合わせて祀られています。地元では、「薬師さん」と親し みを込めて呼んでいます。
湯泉神社と同様、毎年1月2日には行基菩薩像、仁西上人像に初湯で沐浴していただく入初式が行われます。大晦日には鐘楼から除夜の鐘が温泉街に静かに響き ますが、この鐘は、観光客の方も撞くことが出来ます。なお、天皇や皇后、高僧などによって書かれた経文、および、国の重要文化財に指定されている黒漆厨子 と波夷羅大将立像が宝物として収蔵されています。薬師堂の両脇に鎌倉時代末の作と言われる五輪塔が二基ありますが、平清盛と慈心坊尊恵の塔と伝えられてい ます。
温泉寺の北東に隣接している念仏寺は、岌誉上人の開基で1532年に創建されました。当初は谷之町にありましたが、約400年前に現在地に移っており、太 閤秀吉・北政所の別邸跡と言われる見晴らしの良い、有馬でも一等地の高台にあります。徳川家康の檀那寺である大樹寺が浄土宗であったので、同じ宗派の念仏 寺に特別な配慮があったものと言われています。現存の本堂は1712年の建立で、有馬温泉では最古の建造物です。この寺の石垣も有馬一古いと言われてお り、見事な石材が使われています。
この寺は、沙羅双樹の木、蛤(はまぐり)石、雀石のある美しい庭園でも有名です。樹齢250年という沙羅双樹の大樹があり、「沙羅樹園」と呼ばれていま す。ここでは、毎年6月下旬、沙羅の花の見頃になると、「沙羅の花と一弦琴の鑑賞会」が開催されます。ご本尊は快慶作と伝えられる阿弥陀仏立像で、法然上 人画像「月輪御影(つきわのみえい)」も寺宝として所蔵されています。また、神戸七福神巡りの一つ“寿老人”も祀られており、参詣人が絶えません。
温泉寺の東200mほどの所にある林渓寺には有馬保育園が併設されています。温泉寺や湯泉神社とともに子授けの寺として有名です。1601年、落葉山の麓 に池の坊法順が開基したと伝えられる浄土真宗大谷派の古刹で、江戸時代には東本願寺別院として「有馬御坊」と呼ばれていました。1695年、火災により焼 失し、再建されましたが、1753年に再び類焼しました。その翌年に落葉山の麓から現在地に移され、本堂が上棟されて、今に至っています。仏師春日による 阿弥陀如来像(1651年の作)を本尊とし、中国より渡来した約300年前の作である慈母観音(子授観音)、親鸞上人絵像(1608年の作)を寺宝として います。
境内に「未開紅」という樹齢200年以上の紅梅の古木があります。この名称の起こりは、1781年、本山19世乗如上人(本願寺の門主)が有馬入湯の折 に、梅の蕾の紅色が殊に深く、美しいのを見て名付けたものと言われています。毎年3月下句になると、紅色の美しい八重の花が咲きます。古くから、この梅の 実を食べると子宝に恵まれるという言い伝えがあり、別名「はらみの梅」、「にむしんの梅」とも呼ばれています。
阪急バス有馬案内所の向い側にある観光総合案内所の手前の石段を上ると直ぐに善福寺に着きます。行基が開基した曹洞宗の寺で、その後、仁西上人が再興しま した。古来、有馬温泉の一之湯の灯明は、この寺から掲げたと伝えられています。ここに祀られている聖徳太子の童子像は、鎌倉時代の優れた作品で国の重要文 化財に指定されています。また、阿弥陀如来像は、天竺 (インド)渡りの金仏です。寺に伝わる大ぶりの茶釜は、阿弥陀堂住職の頭の形を面白がった秀吉が千利休に命じ、その形に似せて天下一与次郎という釜作りの 名人に作らせたところから、「阿弥陀堂釜」と名付けられています。秀吉は千利休とともに当寺や末寺の阿弥陀堂で度々茶会を開いており、毎年11月2日には 太閤を偲んで有馬大茶会の献茶式が行われます。
山門をくぐると、樹齢200年を越える桜の大木があります。美しい枝振りで人の目を楽しませてくれる一重の枝垂れ桜で「糸桜」と呼ばれています。有馬名所 の一つと言われ、神戸市民の木、および神戸の名木にも指定されています。夜間はライトアップされ、太閤通りや阪急バス有馬案内所から美しい桜を眺めること ができます。
温泉寺・念仏寺に隣接している極楽寺は、593年に聖徳太子によって創建された浄土宗の寺です。1773年、大火で焼失しましたが、9年後に再建されたの が現在の建物です。古い歴史のある寺で、かつては念仏の大道場として栄えたと言われています。寺宝の厨子は、徳川五代将軍綱吉の母である桂昌院の寄進とさ れており、火除観世音菩薩や法然上人ゆかりの橋杭地蔵尊なども宝物とされています。
1995年の阪神淡路大震災で損壊した庫裏(くり:寺の調理場)の修理中に、安土桃山時代の遺跡が発掘され、秀吉が造らせたと伝えられていた「湯山御殿」 の浴室や庭園の跡であると確認されました。湯殿の存在は昔から言い伝えられていたようですが、古文書や絵図面などの文献資料はありませんでした。庫裏の下 から400年の時を経て、数々の遺構や出土品が出てきたため、言い伝えが正しかったことが判明し、1997年に神戸市指定文化財の史跡に指定されました。
さらに、1999年、これらの遺跡と出土した瓦や茶器などを保存・公開するとともに、 秀吉が愛した有馬温泉の歴史と文化を紹介するため、この御殿跡に「太閤の湯殿館」がオープンしました。館内には、蒸し風呂と岩風呂の遺構を展示してある 他、焼き物や瓦などの出土品、復元した龍の飾り瓦、さらには秀吉と有馬温泉の深い関わりを示す資料などが展示されています。内装には、安土桃山時代の「ふ すま絵」や「飾り欄間(らんま)」のレプリカが取り入れられ、太閤秀吉の “夢の跡” を現代に再現しています。
有馬温泉の中心街から東に7?800mほど離れた、有馬川の上流沿いに瑞宝寺公園があります。この公園には、太閤秀吉が「いくら見ていても飽きない」と誉 めたという清閑な庭があります。また、時の経つのも忘れるという所から、別名「日暮らしの庭」とも呼ばれています。秀吉の死後、1604年に大黒屋宗雪が ここに瑞宝庵を建てました。その孫、寂岩道空が黄檗宗に帰依して、瑞宝寺を新しく建立しました。約200年前に、25代目の子孫、草頂文秀が堂塔伽藍をす べて完成させ、さらに、その法弟である慈定真戒が境内の整備に注力し、特に楓や桜の植樹に努めました。この頃から瑞宝寺は「日暮らしの庭」、「錦繍谷」と して、世に知られるようになりました。瑞宝寺は1873年に廃寺となりましたが、1951年に神戸市が瑞宝寺跡を公園として整備しました。紅葉シーズンに なると、おでん、うどん、甘酒などが楽しめる「もみじ茶屋」がオープンします。神戸市の「花の名所50選」にも選ばれており、春には美しい桜が見られます。
秀吉が千利休らと大茶会を催した故事に倣い、1950年から毎年11月2日と3日に、秀吉の遺徳を偲ぶ有馬大茶会の野点が催されます。公園内には、大きな 石塔や秀吉が愛用したと言われる石の碁盤があります。また、『ありまやま ゐなのささ原 風ふけば いてその人を わすれやはする(大弐三位)』という和歌が書かれた歌碑が建てられています。これは、「後拾遺集」に収められ、「小倉百人一首」にも選ばれている恋の歌で す。足遠になった男が女の心を探るような歌を寄せてきたので、「どうして私があなたを忘れたりするものですか。お忘れになったのは、あなたではありません か。」と言い返した歌です。
愛宕山の南東に標高689mの射場山((功地山)がありますが、その中腹に有馬稲荷 (稲荷神社)があります。舒明天皇・孝徳天皇(630?670年代)の有馬温泉行幸の折に、有馬字杉が谷に有馬行宮 (杉が谷行宮)が造営されました。この有馬行宮の守護神として稲荷大神を勧請し、これが「有馬稲荷」の発祥となりました。その後、千数百年の間、常に皇室 の崇拝をあつめ、1868年には有栖川宮織仁親王のご令旨により永世宮家祈願所となりました。以来、皇族の方々が度々お参りになり、社殿を建てられたり、 修理されたりしました。
1904年、射場山 ((功地山)の中腹に新たに四季の花木を植えて、稲荷神社を有馬行宮跡から移転し、造営しました。参道を上ると、本殿より一段高いところに展望台があり、 三丹州と呼ばれる丹波・丹後・但馬まで見渡すことができます。ここからの眺めが素晴らしいので、有馬名所の一つに数えられています。
有馬温泉を見下ろす落葉山(標高533m)には、有馬観光総合案内所の裏手から登ることができます。案内所から南西方向に500mほど離れた中腹に妙見寺 があります。南北朝時代には、現在、寺の境内になっている所に落葉山城 (別名 有馬城)があったと伝えられています。築城者に関する定説はありませんが、南朝方の湯山左衛門三郎の居城であったと文献にあります。戦国時代には、細川氏 の重臣であった三好之長の子、三好政長が落葉山城を拠点にして播磨や丹波に進出しようとしました。1539年、三木城主の別所家直に攻められ、三好政長は 河内国へ敗走したので、この城は三田城主の有馬村秀の支配下となりました。1579年、信長の息子、織田信忠に攻められ、有馬加賀守が守っていた落葉山城 が落城しました。
落葉山は、人の立ち入ることが少なかったため、珍しい種類の紅葉がたくさん残っています。1906年に余田左橘右衛門が城山の頂上に妙見堂を建てました。 本尊は、1873年に廃寺になった金剛寺に祀られていたもので、足利義満が寄進したと伝えられています。山頂からの四季折々の眺めは素晴らしく、北摂の 山々が美しい姿を見せてくれます。
「金の湯」(旧温泉会館)の北東に隣り合って天神社 (天神泉源)があります。979年に京都の北野天神を分けて祀られたと伝えられ、以来、温泉の泉源を守る神様として崇められてきました。しかし、江戸時代 に二度の大火に遭い、社殿や宝物がすべて焼けてしまいました。石の鳥居や表額は1748年に作られたものですが、これを寄進したのは、芭蕉や其角の弟子と して有名で、淡々風の俳句を流行させた半時庵淡々という俳人です。
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