【摩耶山天上寺(まやさんてんじょうじ)】摩耶山天上寺は、646年、孝徳天皇の勅願により、日本への仏教伝来のため、インドから渡来したと言い伝えられた法道仙人が開祖として建てたお寺です。
ご本尊の「十一面観世音菩薩像」は、お釈迦様が42歳の時に自ら造られ、法道仙人が持参してきたとされる、一寸八分(約6cm)の黄金の仏像です。
これは、秘仏であり、33年毎に行われるご開帳以外は、拝観できません。
摩耶山や大阪湾一円の四州に開けている八州の守護仏とされてきました。最も栄えた頃は約3000人の僧を擁する摂津地方第一の大寺だったと言われ、宗派を越えて皇族、武将なども含め、広く信仰されてきました。
もう一つのご本尊である、「仏母摩耶夫人尊像」は極彩色等身大の仏像であり、金堂内に祀られていますが、弘法大師が唐に留学した際に、中国で女人守護の御仏として、盛んに崇拝されていた梁の武帝自作とされる香木造りの摩耶(マーヤー)夫人像を持ち帰り、当寺に祀ったと伝えられています。
摩耶夫人は、お釈迦様のご生母で、キリスト教のマリア様に相当する“仏母”です。
このため、山号を「仏母摩耶山」と呼び、寺の名を摩耶夫人の昇天された
(とうりてん)の名にちなんで
「
」と号するようになりました。略称として、“摩耶山 天上寺”と呼ばれていますが、女人総守護の本山、
女人の御寺、女人高野とまで謳われ、広く女性の信仰を集めており、日本で最初に安産腹帯を授けた寺としても有名です。
かつて、天上寺は摩耶山の九合目のあたりにあったのですが、1976年に賽銭泥棒の失火で七堂伽藍が全焼したため、その後、現在地である摩耶山頂に再建されました。
境内への入口には通常見られるような山門がなく、代わりに2本の門柱が建っているだけです。
石段の手前には千年杉と呼ばれている杉の巨木の傍らに、「孝徳天皇勅願所」という石碑があり、石段を登ったところには「正親町天皇勅願所」と「花山天皇勅願所」という石碑があります。
境内に続く石段の両側は、新緑の紅葉がとてもきれいでした。
山頂に着くと、境内からは遠くの山並み、街並みを見渡せます。また、「お愛でたガエル」や「若ガエル」などの、かわいい石像もあります。
境内には、いくつかの建物が見えますが、最も大きな建物である「金堂」が目を引きます。これは、1985年に再建されたもので、この寺の山号寺号を書いた額は「金堂」の正面上に掲げられており、中には二体のご本尊の他、多くの仏像が祀られています。
金堂の左側(西側)に、当寺の開基である「法道仙人の石像」が建てられています。
法道仙人は伝説的な僧であり、インドから中国経由で紫雲に乗って日本に渡ってきたとされています。
一説には、インドから仏舎利と宝鉢だけを持って渡来したとされますが、天上寺の縁起によると、お釈迦様の造った十一面観世音菩薩像も持ってきたとされています。
法道仙人はとんでもない神通力を持っていて、食べ物がほしくなったときは、宝鉢を飛ばせば食べ物がそれに乗って戻ってきたというように、誇張された伝説にまでなっているほど、崇められていた高僧だったとようです。
金堂の正面右寄りの場所に「仏足石」が置かれています。
これは、お釈迦様の足の裏の形を石に彫ったもので、仏陀がそこに立っている標幟とされており、これを礼拝すれば生身の仏陀を拝むのに等しいと言われています。
この仏足石は1864年の作とされ、形の良さで全国の仏足石の中で屈指の名品の一つとされています。
一般に寺院には小さい石仏をよく見かけますが、この天上寺には特に多く、境内の至る所に赤い前掛けをかけた石仏が見られます。
金堂の右側には、見事にずらりと並べられた小石仏の群があります。
天上寺は昔から俳人に親しまれ、蕪村とその一門の俳人を始め、多くの俳人がしばしば訪れました。また、摩耶詣(まやもうで)が俳句の季題に選ばれたことから、摩耶山が俳句の山として有名になったようです。境内には幾つかの句碑が建てられていますが、その中に『菜の花や月は東に日は西に』という碑があります。これは蕪村の代表的な名句の一つですが、彼が摩耶詣での帰り道に摩耶山の中腹あたりで詠んだ句と言われています。
御詠歌:
ちぬの海わたるもゝ船あけくれにあふぐや摩耶の法(のり)の燈火(ともしび)