有馬温泉では、秋本番を迎えています。
今回の有馬ナビでは、有馬温泉から車で約20分という「三田」の数多くの観光スポットや歴史などのトリビア情報を満載しています。 三田市は、九鬼水軍の武勇で有名な九鬼氏が江戸時代の初めに移封された三田藩の城下町で、周辺の里山一帯はマツタケの産地として有名でした。 今でもJR三田駅の周辺では、城下町としての面影が見られます。郊外の農村地帯では自然に恵まれ、三田牛に三田米、シイタケなど、新鮮な農作物や特産品が豊富です。 しかし、ひと駅北側の新三田駅の周辺では、大阪のベッドタウンとしての開発が急速に進み、整然と区画整理された町並みが見られます。 公団が宅地開発したウッディタウン、フラワータウン、関西学院などのあるカルチャータウンがあります。 城下町とニュータウンという二つの顔を持つ「三田」と秋たけなわの有馬温泉にぜひお越し下さい。 龍泉閣の露天風呂からも、三田盆地や有馬富士などを遠く一望でき、寒い冬の朝には雲海を望めることもあります。 |
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「兵庫県立人と自然の博物館」は、「人と自然の共生」をテーマに、これまでの自然史博物館に、人の暮らし方について研究・提言する機能を加えた新しいタイプの博物館です。収集資料は23万点にのぼり、約3000点を5つのブロックで常設展示をしています。
兵庫県の自然を紹介する「兵庫の自然誌」を始め、「人と自然」、「新しい文化」、「生物の世界」、「地球、生命と大地」の5つのテーマで、人と自然の関わりや48億年の地球の歴史をジオラマや映像を使って立体的に紹介しています。 アメリカマストドンの骨格化石などの展示物も見応え十分です。 映像、コンピューターなどあらゆる手法を用いた展示の他に、「ひとはくサロン」では、本や図鑑の閲覧ができ、実際に手で触れられる標本も揃っています。
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「三田市立歴史資料収蔵センター」は、1995年にオープンした埋蔵文化財・民俗史料の収蔵センターです。
1階の展示室では、企画展・発掘調査の速報展が年に数回開催されます。
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「三田市立ガラス工芸館」は、丹波立杭焼の陶土の産地として知られる三田で、ガラス工芸の技法が体験できる施設です。
本格的な吹きガラス講座(3600円)が毎日曜日開催されており、コップやグラス作りが楽しめますが、予約が必要です。 廃ガラスを利用しながら吹きガラス、ステンドグラス、バーナーワークなどあらゆる技法が体験できます。 「ガラス体験コース」は小学生から参加可能です。 1階でガラス工芸を楽しんだ後は、2階の工芸品の展示室を覗いてください。さらに幅広い知識と技術を身につけたい方は、全12講座の技術習得コースも受講できます。 また、クリーンセンター(ごみ処理施設)の余熱を利用した温水プールやサウナ付き浴室も備えています。
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「旧九鬼家住宅資料館」は、三田藩の家老職を代々務めた九鬼家の当主九鬼隆範が自ら設計し、1875年前後に建てた全国でも数少ない擬洋風建築の建物で、兵庫県重要有形文化財に指定されています。
擬洋風建築とは、明治の初めに大工が純洋風建築物を部分的に真似て建てた建物です。旧九鬼家も伝統的な商家のたたずまいですが、正面左側2階のベランダ部分と窓が洋風です。 資料館は、母屋と土蔵からなり、近代以降の暮しが学べる展示品やカマド、ながし、井戸などが復元されています。 内部も畳敷きの伝統的な造りですが、2階部分に帳簿や書き付け、古い和本などを下貼りにし、襖紙を壁紙にして天井から壁全体に貼りつめた洋間があります。 館内には、九鬼隆範氏手作りの製図用具や定規、設計図用の絵の具や絵皿なども展示されています。
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JR三田駅北西の三輪地区では、江戸後期から昭和初期にかけて、三田青磁焼が作られました。
その窯跡を整備した「三田市三輪明神窯史跡園」が2003年末に三輪神社の裏手に開園し、郷土の歴史と文化に触れられる公園として、小学生の校外学習などに活用されています。 神社前から東寄りの道を進むか、本殿のすぐ右の階段から遊歩道をお進み下さい。 窯跡は発掘調査した状態のままで公開されており、第1号窯は県史跡、第2・3号窯や素焼き窯、工房跡などは市史跡に指定されています。 他に展示コーナーを備えた管理棟や陶芸体験ができる陶芸学習棟が揃っています。 陶芸学習棟の一角では足元の小型窯がガラス越しに見られます。 管理棟にある展示室では,出土品の展示や三田の窯の解説もあります。 |
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先祖代々志摩を本拠にしていた九鬼水軍が海から遠く離れた山中に移され、築城したのが三田陣屋です。
規模が小さいので陣屋と呼ばれていますが、丘の上に築かれた、れっきとした城です。 三田陣屋の跡は、本丸が三田小学校になっており、ここに三田城址の石碑と縄張り図のある案内板があります。二の丸が県立有馬高校の敷地となっており、本丸と二の丸の水濠、二の丸東側の空堀が残っています。 建物の遺構としては、小学校から西に徒歩10分の所にある金心寺に下屋敷表黒門が移築されています。
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JR三田駅から北に約500m進み、商店街を国道176号線に出たところに大己貴命(おおなむちのみこと)を祀る三輪神社の鳥居があります。
この神社は山岳信仰の聖地である大和国一宮の大神(おおみわ)神社から765年に分祀されたもので、三田市内でも最も歴史のある神社の一つとされています。 本殿は2005年4月に「平成大遷宮」を古式に倣って実施する予定です。現在は、そのための葺き替え中なので、拝殿の横に仮社が置かれています。 南北朝時代に大和国城上郡から来た領主、松山彈正が天神山からこの地、丸山に遷座し、社殿を設けたと伝えられています。 近世になると、三田藩主の崇敬も篤く、二代藩主の九鬼隆昌が神鏡一面を、五代藩主の隆方が1701年に「三輪大明神縁起」一巻を奉納している他、歴代藩主が拝殿を再建したり、石鳥居、額面、神輿などを寄進したりしています。 社務所から続く路地には、三輪の交差点の少し手前に、お堂が建っていますが、堂内には長い柄杓が置かれ、御霊水と言われる、きれいな清水の湧き出る池があります。 1997年、例祭に奉納される「波宇也踊(はうやおどり)」が市の無形民俗文化財に指定されています。 |
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花山(かざん)天皇が19歳の若さで隠棲された所として「花山院」と呼びますが、正式名称を東光山菩提寺と言います。
西国三十三ヶ所観音霊場の番外札所です。花山天皇が剃髪された元慶寺(京都)、巡拝創始者である徳道上人の法起院(奈良)、そして菩提寺の花山院、以上の3ヶ寺を特別札所としています。 境内の法皇殿前の一段高い玉垣の中に御廟所があり、今でも巡礼者の列が途切れることはありません。 堂塔伽藍は天皇に仕えた源頼光が寄進しました。市指定重要文化財に指定された「花山法皇像」があります。 寺は標高418mの阿弥陀峰山頂にあり、前庭から三田市街や瀬戸内海までも眺められます。紅葉の季節も素晴らしいですが、若葉が茂る初夏も一見の価値があります。 花山院と十二妃の墓 天皇を慕う女官11人が女人禁制で入山できず、尼になって山の麓に住みました。 元女官の尼たちが寺までの山道を女人禁制とされる境界の所まで登り、琴を弾いてお慰めしたので、この参道の坂を「琴弾坂」、この地を「尼寺」と呼ぶようになったと伝えられています。尼寺の中央の丘に、皇妃の弘徽殿祇子と11人の尼たちの墓があります。 |
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地名は「えいたくじ」ですが、寺名は「ようたくじ」と読みます。
1370年、後円融天皇の勅願を受け、通幻禅師が曹洞宗禅道場として開山。広い境内には本堂、開祖堂など七堂伽藍が並び、荘厳なたたずまいを見せています。 永澤寺の本尊は本堂に祀られている釈迦三尊像です。妙高閣観音堂には、高さ9.2mの極彩色の大観世音菩薩が安置されており、さらに2〜3世紀に古代インドで作られたガンダーラ仏像が10数点展示公開されています。 関西花の寺25ヶ所霊場第11番札所として、芝桜・花菖蒲・牡丹など季節の花が観賞できます。花菖蒲の季節である6月上旬〜7月上旬には、予約すれば庫裏で精進料理(松花弁当2500円)を味わうこともできます。 また、希望により宿泊参禅研修を実施していまし、そば打ち体験ができる「そば道場」や雲水そばが味わえる食事処も人気を集めています。
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「永沢寺花しょうぶ園」では、650種類、約300万株とも言われる花菖蒲が、6〜7月にかけて青紫から白まで様々な色の花をあでやかに咲かせます。
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「永沢寺ぼたん園」では、春牡丹と冬牡丹が100種類、約2500株と多彩な品種が見られます。
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ゆるやかな丘の畑一面に植え付けられた芝桜が一億輪もの大群落になっています。北海道以外では国内唯一の芝桜専門の庭園です。
5000uの庭園を、開花期には1億本の芝桜の花が覆い、地面がまったく見えなくなることから、「花のじゅうたん」の名が付けられました。庭園は、ゆるやかな丘陵で、ピンクや白、赤などの芝桜が植え分けられていて、まるでパッチワークのような眺めは壮観です。 芝桜は、北米原産のハナシノブ科の植物で、開花期のみの開園ですが、年によって開花の時期が異なりますので、ご注意下さい。
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三田市北部の有馬富士、福島大池、千丈寺湖を中心とした一帯(約416万u)が県下最大の都市公園「県立有馬富士公園」として整備されています。
野外活動、芸術文化、スポーツなど6ゾーンに分けて整備する予定です。現在は、公園の玄関口となる「出合いのゾーン」(70万u)が既に整備されており、豊かな自然を活かした「自然休養型の文化公園」を目指しています。 雑木林の植生や昆虫を観察できる「林の生態園」や、水田跡を利用した溜め池で、池とその周辺に生息する生物を学ぶ「水辺の生態園」、野鳥を観察する「鳥の道」、農作業の体験もできる「棚田」などのゾーンに分かれ、自然散策やバードウォッチング、昆虫採集など、数々の体験ができるようになっています。 有馬富士の眺めも抜群で、天気のいい日には、園内の福島大池に映る逆さ富士を楽しめます。動植物などの自然に関する展示や、ユニークな体験のできるセミナーも随時開催し、親子連れに人気があります。日頃から住民の手づくりイベント「夢プログラム」が開催され、多くの来園者が楽しんでいます。 150名収容のホールを備えた「有馬富士パークセンター」は、2001年に完成し、有馬富士公園の、広大な敷地のエントランス・ゾーンに位置し、この公園の管理事務所、案内、休憩所、また公園内で展開される様々な自然文化活動の拠点として展示会、音楽会、研修会などに利用されています。 「有馬富士自然学習センター」では、三田の里山や武庫川の景観と動植物を再現した、自然をテーマにした展示を始め、学習室や木工室などが整備されており、子ども達を対象にした様々なイベントや企画展を開催しています。 |
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■市立有馬富士自然学習センター
■県立有馬富士パークセンター
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「自然と一緒に遊ぼう」がテーマの柴田ファームは、約53万uもあります。大自然の中で乗馬、マウンテンバイク、動物広場、花畑、バーベキューなど、アウトドア・ライフを満喫できる巨大な観光牧場です。
山あいの大自然を活かしたマウンテンバイクのコースは、クロスカントリー、デュアル・スラローム、ダート・ジャンプの3コースがあり、オートキャンプ場を利用して泊まりがけで楽しむ人も大勢います。 ポニーやウサギ、ヤギ、ヒツジなどを触ったり抱いたりできる「ふれあい動物広場」は、小さな子供に大人気です。
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1889年、アメリカの南メソヂスト監督協会から派遣された宣教師ランバス氏によって、「原田の森(神戸市灘区王子町、当時の原田村)」に関西学院が創立されました。
明治初めのいわゆる新進学徒の好みから関西を「くゎんせい」と漢音読みしたため、英文名は"Kwansei Gakuin"です。創立40周年の1929年に西宮上ヶ原キャンパスに移転しました。 1995年に神戸三田キャンパスが開設され、現在までに総合政策学部と理工学部が移転しています。 ここは、三田市のカルチャータウン北部に位置する学園ゾーンで、豊かな自然に恵まれた郊外型キャンパスです。 西宮上ヶ原キャンパスと同様に、伝統的なスパニッシュ・ミッション・スタイル(スパニッシュ・コロニアル・リバイバル)と呼ばれる様式で統一された校舎群が35万uの広大な敷地に整然と立ち並んでおり、一見の価値があります。
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三田藩の足軽の息子として生まれた小寺泰次郎は、生前、福沢諭吉の提唱する理想的学園の設立を夢見ていました。
父の遺志を引き継いだ長男謙吉はイギリス式教育を下敷きに、藩校造士館の伝統を受け継いだ三田中学の設立を計画しました。 欧州から帰国した年の1907年から2年間で三田町郊外の桑畑18万uを買収し、1912年に校舎が完成しました。 イギリスのパブリック・スクール(全寮制の私立中等学校)を模した木造二階建て、下見板張り、オイルペンキ塗りという当時としては実にモダンなものでした。 現在も、この建物は三田学園の中学本館として使用されています。 さらに1937年に創立25周年を記念する図書館が建設されましたが、1998年に、それぞれ文化庁により近世以降の築50年以上の歴史的建造物や景観を対象とする「登録有形文化財」に指定されました。
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感神社の社殿裏には露呈した岩盤があり、御神霊が宿る神域として、崇拝されている「磐座」があります。
社殿様式は春日造りの柿葺き(こけらぶき)で、上青野にも同様式の感神社があり、両社とも祭神としてスサノオノミコトを京都祇園社から分霊しています。
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駒宇佐八幡神社の現本殿は明和年間に大旱魃が襲った時に、三田藩八代藩主の九鬼隆邑と須磨田6ヶ村の浄財寄進により再建されたもので、神恩に報いるため、宮建築の粋を尽くして建立されています。
本殿・舞殿・長床が市指定重要文化財です。
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御霊神社は、1470年にイザナギノミコトとイザナミノミコトを祀るため、惣内の浄財を集めて造営されました。当時の神仏習合の信仰を反映した彫物があります。本殿は国指定重要文化財です。
境内には、「貴志のぬけ石」と呼ばれる岩が2基あり、陰陽にたとえて「夫婦石」とも呼ばれています。また、その中の1基は「夜泣き石」と言われ、民話が伝承されています。 「夜泣き石」の民話 九鬼の殿様は、貴志の御霊神社の「茶臼石」が気に入り、家臣に命じてお城の庭石にしましたが、夜になると、女のすすり泣くような声で、「貴志へ帰りたい!貴志へ帰りたい!」という声が聞こえました。 気味悪くなった殿様がその石を清めて、元の場所へ返した所、すすり泣きは聞こえなくなったので、この石を「夜泣き石」と呼ぶようになったそうです。
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三田天満神社は、全国に5千以上ある天神様の内の25社天神の一つで、京都の北野天神、大阪の天満天神、とともに、兵庫の三田天神として有名です。1545年に領主赤松村秀が三田神祠を再建し、1633年に三田藩主であった九鬼久隆の意向で代々の三田藩主の御祈願所となりました。随身門には、三田藩士出身の九鬼隆一男爵による「遺徳燿萬春」の額がかかっています。
「天神公園」
九鬼藩主代々の祈願所であった天満神社に隣接していて、園内には梅・桜など季節の花が植えられています。中でも桜が咲き誇るシーズンには、多くの花見客で連日賑わいます。 |
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高売布神社は、旧延喜式の内社で、1513年に建立された一間社流造り、桧皮葺きの本殿は、越前守小野時家によって再建されています。
摂播地方に多くの優れた業績を残した、播州日原在の棟梁、藤原光吉・宗次が手がけ、彫物を多用した華麗な建築です。 本殿と木造の狛犬一対が国指定重要文化財で、千本搗きが市指定無形文化財となっています。
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小野天満神社と類似の建築様式で、庇(ひさし)階段宝珠柱の下段は禅宗様式の逆蓮柱になっており、これは酒滴神社とも同一の手法です。
社号額は1734年に京都の尼寺、宝鏡寺(人形寺)の内親王から贈られたもので、本殿は市指定重要文化財です。
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覆屋の中に二社が合祀されています。向かって左側にある、一間社流造り、柿葺きの社殿が県重要文化財です。
妻組・肘木・蟇股に室町時代の建築様式を色濃く残しています。
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986年に、多田満仲の四男、法名源賢によって真言宗天野山安楽寺として開基されましたが、1570年に織田信長によって焼滅されました。
1676年に本堂紫宸殿を再建し、翌年、浄土真宗本願寺派に転派したので、以後、無量山安楽寺と呼ばれています。
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観音寺のご本尊は十一面観音菩薩です。江戸中期に購入された大般若経200巻には、永享年間(1429〜1441)の奥書があり、慶長年間(1596〜1615)に修理したことなど、伝来の由緒が分かる貴重なものです。
「建長2年(1250)」の銘がある孔雀文磬は県指定重要文化財です。なお、観音寺裏の墓地には、近世大坂相撲の力士碑が並んでいます。
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観福寺は、法導仙人が開基した寺で、中世においては、高平庄一帯の別当惣寺として七坊の塔頭を持つ大伽藍でした。
相次ぐ兵火によって焼失し、往時の面影は見られませんが、県指定文化財である山門と市指定重要文化財である仁王像一対と大般若経(一巻)や四座講式理趣三昧行法次第という典籍の一部が残存しています。
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心月院は、1633年に鳥羽より移封された九鬼氏が家代々の宗廟として、旧鳥羽領での菩提寺であった常安寺の覚雄是的和尚を開基として建立しました。
境内には歴代藩主とその家族がひっそりと眠る墓所があります。
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現在の大舟寺は、江戸時代に宇治万福寺の二代目である別伝和尚の入山により開山しました。
これは藩主の黄檗宗信仰によるものです。なお、大舟山腹にあった廃寺の参詣道に卒頭婆形の町石が残っており、県指定重要文化財となっています。 また、境内のカヤの木が県指定天然記念物です。大舟寺では、中国風の精進料理である普茶料理が味わえますが、予約が必要です。
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蓮花寺は法導仙人の開山と伝えられ、1300年の寺歴を誇る古刹です。
平安時代には多田源氏の帰依を受け、多数の寺宝を収蔵しており、その多くは県・市の指定文化財となっています。 楼門、裏山の多宝塔、両界曼荼羅図および縁起、阿弥陀如来像、脇持三尊像、弥陀三尊種子板碑が県指定重要文化財となっており、仁王像、一石五輪塔、石造五輪塔が市指定重要文化財です。
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三田藩は摂津国有馬郡にあった小藩で、江戸時代の初めに福知山藩領に組み込まれ、城も破却されて廃藩となりましたが、1626年に松平重直が3万石で三田藩を再興し、1632年には水軍大名として勇名を馳せた九鬼嘉隆の孫である久隆が新藩主として入封しました。
九鬼氏は、元来は九鬼浦(三重県尾鷲市九鬼町)の豪族ですが、1350年代に鳥羽に移り、志摩湾一帯の領袖となりました。信長・秀吉に仕えた嘉隆が鉄張りの黒舟による九鬼水軍の活躍によって鳥羽3万5千石を与えられ、嘉隆の子の守隆は関ヶ原の役と大坂の陣で戦功を挙げて加増され、5万6千石の大名になりました。 1634年、九鬼守隆が死去すると、三男と五男が家督を争いました。幕府は、伊勢湾の制海権を九鬼水軍から取り上げるため、九鬼氏を三田と綾部の二家に分け、五男久隆を鳥羽から三田3万6千石に移し、三男隆季に丹波綾部で残る2万石を分与したため、九鬼一族は水軍と無縁な山間の盆地に移封されました。久隆が国入り後、出来る限りの川舟を集めて武庫川で舟戦さをしたと伝えられ、また、三田小学校の南側に広がる「御池」と呼ばれる大きな池は、水軍の訓練を続けるために掘削した軍事施設だったと言います。 九鬼家は久隆以降13代235年にわたって三田に在封しましたが、10代目の隆国が名君として知られています。 藩校「造士館」を創設した他、西欧文化の導入も積極的に行い、化学者川本幸民や兵制改革に成功した名家老の白洲退蔵など優れた人材を輩出する下地を作りました。 隆国以降、三田藩ではフランス式の軍事調練を取り入れ、最後の藩主隆義は川本幸民の奨めで最新鋭のイギリス製スナイドル銃を大量に購入し、白洲退蔵が洋式軍隊を率いて討幕側として参戦しています。 1871年7月の廃藩置県で「三田県」となりましたが、同年11月には兵庫県に編入されました。三田町が周辺の町村と合併した結果、1957年には現在の市域になり、その翌年には「三田市」になりました。 |
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宝暦年間(1751〜1764)から昭和初期に至る約180年間に三田周辺で焼かれた陶磁器の総称で、主に、1799年から大正初年まで続いた三輪村の三輪明神窯、1789年から昭和初期まで続いた天狗の鼻窯(志手原焼の開祖小西金兵衛の高弟である内田忠兵衛が開窯。
呉須赤絵写しや赤絵・染付で有名)、1822年から幕末まで続いた虫尾新田窯、天保から昭和初年まで続いた亀井一族の窯などを指しています。中でも全国的に有名なのが三田青磁です。 三田青磁焼は、三田の豪商であった神田惣兵衛による財政的支援の下で、天狗の鼻窯の内田忠兵衛と京都から招いた欽古堂亀祐(1765〜1837)によって創始された銘品です。 |
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青磁というのは、陶磁器の中でも最も製造が難しく、中国や朝鮮でも短期間だけ製造されたものです。
青磁の青色は鉄の化学反応によるもので、酸欠状態で窯を炊くと、釉薬に含まれた酸化鉄が還元されて青味がかった色になります。しかし、その色は、チタンなどの微量元素の多少によって緑が強くなったり青が強くなったりするという極めて微妙なバランスの上に成り立っているものです。日本では、古来、淡い青色のものが好まれており、特に「砧(きぬた)青磁」と呼ばれ、珍重されています。 中国の青磁で最も有名なのは、北宋時代の汝官窯と南宋の修内司窯ですが、その南宋の砧青磁も元の時代になると緑色が勝ちはじめ、青の美しさが失われていきます。日本では、青磁の歴史は浅く、江戸初期に有田青磁が作られたのが最初で、他にも、平戸青磁・瀬戸青磁・姫路の東山焼がありますが、中でも三田青磁の評価が高いとされています。 内田忠兵衛は三田の畳職人の家に生まれましたが、焼き物に魅せられて、呉須窯の陶工になりました。1801年に香下の砥石谷の川岸で青磁用原石を発見し、丹波立杭窯で試作した結果、青磁らしいものになり、この地の石が釉薬や磁石として適していることが分かると、三輪村に三輪明神窯を設け、神田惣兵衛の支援を仰ぎました。多額の出資を決意した惣兵衛は、生涯にわたって本格的な青磁焼を完成させるために協力を惜しみませんでした。 三田青磁を盛んにし、著名にしたのは、京焼きの磁祖、奥田頴川の高弟で型物作りの名手であった欽古堂亀祐(本名:土岐亀助)を1810年に三田に招聘して、高度な技術を学んだお陰です。彼は京都市東山区の丹波屋に生まれ、伏見の人形師であったので、手先が器用で、造形の技術は実に精妙でした。こうして、明神窯は新種の青磁を制作し、他の赤絵や染付けと共に自信作を多く世に送ることができ、名声を博するようになりました。中でも浮き彫り青磁には優れた作があり、一方、深みのある緑青色の釉調の青磁は、中国明代の天竜寺手青磁に似ていると高く評価されました。 欽古堂亀祐と神田惣兵衛の亡き後も亀井一族によって三田青磁は焼き続けられましたが、衰退の一途でした。明治に入って、1874年に三田陶器会社が設立され、出資者の芝虎山が亀井竹亭と協力して質・量ともに往時のレベルに肉薄するまでになりましたが、1922年に虎山が没し、三田焼の伝統は絶えました。日本を代表する青磁として全国的に名を知られた三田青磁ですが、今では、すっかり『幻の青磁』となってしまいました。 |
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早稲田大学には、36,570冊という膨大な洋書からなる「小寺文庫」があります。関東大震災で東大を始め、周辺の主要な大学図書館が焼失し、貴重な書物が数多く失われたことを憂慮した旧三田藩出身の小寺謙吉は、東大・早稲田・慶応・法政・中央大などに多数の蔵書を寄贈しました。
中でも早稲田大学は、謙吉が大隈重信と親しかったこともあり、震災直後の1923〜46年という長期間にわたって大量の洋書を寄贈しています。早稲田大学では、その厚意を感謝し、「小寺文庫」と呼んで、今でも早稲田大学図書館の洋書の中核をなしています。内容は多岐にわたっていますが、法律・経済関連のものが六割を占め、他に、歴史・伝記・地誌・哲学・宗教関連が中心です。すべて謙吉自身の選書で彼の教養の深さを物語ります。 1970年代まで、早稲田大学図書館の大閲覧室中央の壁には、小磯良平画伯の描いた小寺謙吉の肖像画が飾られ、勉学に励む若者達を見守っていましたが、残念ながら現在は新図書館の建設に伴い、この絵は倉庫の中で眠っています。 |
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初代神田惣兵衛(通称:内神屋惣兵衛)は、三田藩ご用達の豪商として苗字帯刀を許され、惣年寄り町役人として年始行事や家督相続時に登城して謁見することも許されていました。
二代目の惣兵衛は、摂津国川辺郡中筋村の小池家に生まれました。この家は北在郷16ヶ村、酒造家32軒の総代で大行事役を勤める家柄でした。19歳で三田本町の内神屋の婿養子となり、先代惣兵衛が1792年に没したため、30歳で身代を継ぎ、二代目惣兵衛を襲名しました。 彼は豪胆で商才にも長け、三田での茶相場で巨万の富を得て、商いを広げました。また、米相場で一晩に二万両を儲けたという逸話もあります。彼のような大口投資家がいたため、三田の米穀市場は相当発達していました。当時は山の上に櫓を設け、堂島の米相場の値動きを手旗信号で時々刻々播磨方面にまで伝えていました。幕府は1734年には、摂津の米相場の価格を大坂だけではなく、尼崎・高槻・富田・三田4ヶ所の米相場も参考として決定するよう定めており、三田の米相場を重要視していました。 惣兵衛は、三田に来てから立杭焼や志手原窯に関心を持ち、大坂での陶器市場の動向を調べ、これからの陶磁器は和様物でなく唐物こそ投資に足る事業だと、かねてから内田忠兵衛の三田焼に注目していた惣兵衛は、三田焼に唐物磁器の技術を導入するために、肥前有田の職人を招きました。陶磁両用の四窯式登り窯の明神窯を作り、多くの職人を使って、呉須・染付・赤絵・白磁・緑釉などの三田焼が始まりました。 内田忠兵衛が京焼きの名手である欽古堂亀祐を三田に迎えて、高度な技術を学び、明神窯は三田青磁の最盛期を迎えました。1822年に惣兵衛は有馬富士の山麓に登り窯を新しく築きましたが、拡大政策に歪みがきて、採算は取れず、失敗も重なって、さすがの内神屋にも陰りが出始め、1826年には遂に借金する羽目に陥りました。 惣兵衛は1838年に76才で死去し、その後、彼の墓は菩提寺の正覚寺の無縁墓の中に埋もれていましたが、これほどの功績を挙げた先人の墓が顕彰されずにいることを惜しんだ児玉尊臣によって探し出されました。惣兵衛は、大富豪のままで晩年を迎えられませんでしたが、三田青磁という偉大な文化への貢献を行なったことで、後世に名を残しています。 |
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川本幸民は、1810年、代々三田藩医を勤める家の末っ子として、三田足軽町に生まれました。18才の時に播州の漢方医の下で2年間学びました。藩主の九鬼隆国は、必ず洋学が必要になると見ていて、藩費をもって江戸遊学を命じました。そこで、江戸の蘭方医、足立長集および坪井信道に師事し、緒方洪庵らと並んで研鑚を続けた後、藩医になりました。
藩主がその将来を期待し、江戸に居住することを許したので、1835年、26歳の時に江戸で医業を開き、同年末に学者の青地林宗の娘と結婚しました。1843年に隆国が家督を譲り、二本榎の下屋敷に隠退したため、幸民も格別の知遇を賜った旧藩主とは離れ難いと、近くの芝浦に移転して、下屋敷に伺候しました。 彼は、医学以外に物理・化学にも大いに努力を傾倒し、1851年に岳父の青地林宗の著書の説明不足を補い、平易に解説した「気海観瀾広義」を著わし、その学名は一時に挙がりました。これは医学の補助学科だった物理や化学が独立して研究されるきっかけを作ったという点で画期的な意味を持ち、日本における物理学書の基礎となりました。 1848年、マッチの試作に成功、1851年には写真術を試みて、銀板光画に成功しましたが、カメラ・銀板(フィルム)・現像液・定着液などもすべて手作りしています。1853年にはペルー提督が持ってきたビールをヒントに研究し、自宅に炉を築いて、ビールの試作に成功、日本でのビール醸造の起源だということから、「ビールの始祖」と呼ばれています。 さらに、1854年に「遠西奇器述」を刊行し、蒸気船の構造など詳細に説明して、欧米の新しい器機類を詳しい図を付けて紹介しています。その頃、薩摩の島津斉彬の知遇を得て、薩摩屋敷に伺候し、西洋の兵制軍備や兵器砲術などを訳述し、さらに電信機・写真機・地雷の製法や製塩法などを翻訳し献上しました。薩摩藩が日本で最初の軍艦「昇平艦」を建造しましたが、その製法は彼の著書、「遠西奇器述」から学んだと言われています。 1856年、蕃書調所の教授手伝に任命され、順次昇進し、専ら理化学を教えました。1862年に蕃書調所が洋書調所と改められ、この教授職となったので、英語も勉強し、「英吉利(イギリス)会話」を編集しました。1861年、ドイツのストックハルト著書を訳して書名を「化学新書」と名付けました。同年に、玻璃(はり=ガラス)板写真にも成功しており、写真術の元祖とも言えます。 明治維新後は、一家揃って三田に帰り、金心寺に寄寓しました。嗣子の清次郎と共に、お寺の堂内に蘭学・英学・化学の塾を開き、三田藩の子弟や全国から秀才を集め、教授しました。1870年に清次郎が明治政府より大学小博士に任命されたので、幸民も共に上京しましたが、その翌年、神田千代田町の自宅で、幕末の偉大な科学者は64才で死去しました。 |
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白洲退蔵 は、1829年、三田藩の儒官の家に生まれで、父の文五郎は藩校造士館教授を務めていました。退蔵は1845年、藩から勤学料として年十両を与えられ、大坂の儒者篠崎小竹
について学び、さらに、江戸の古賀謹堂について儒学を修めた。その後、父の後を継ぎ、造士館教授に就任しました。1854年、藩命を受けて、浦賀沖に来航した黒船に庶民に変装し、情報収集していますが、山奥の小藩が独自に外国船の情報収集したことに驚きます。
九鬼隆義は、藩主になった時、退蔵の人柄と学識に感銘を受け、下座に降りて師の礼をとった逸話があります。1863年、退蔵は隆義に懇請されて藩政に参画し、最初は郡奉行として、財政再建・治水事業といった難問の解決に全力投入しました。当時、藩の財政は極端に窮乏しており、負債二十数万両に対し、藩庫にはわずかに三十両と末期的症状でした。退蔵は大坂に赴き、債権者の面々に窮状をありのままに話し、藩主の節倹を旨とした生活ぶりや財政再建の為に抜擢された自分の抱負を誠心誠意語った所、誠実な人柄が満座の債権者の心を打ち、中には追い貸しに応じてくれる人も出てきたと言います。 彼は、藩領の境界を明らかにし、次に、神社の一部を校舎として郷学を設置し、宮田や寺田の一部を学田として財政基盤をも付与しています。また、村毎に社倉(凶作に備えた米の備蓄庫)を置き、備蓄した米の半分を毎年肥料代に充て、肥料を求める村人には米をもって対価とさせ、毎年半分ずつの米が新米と更新されるようにしました。また、軽犯罪者については片鬢(側頭部の髪)、または片眉を剃らせて、溜池開削や堤防工事といった役務に就かせました。三田の誇る三田牛も退蔵が飼育を奨励し、盛んになったと言われています。 明治維新後、大参事(従来の家老職)となり、三田に戻っていた川本幸民を師として藩士に洋学を学ばせる一方で、福沢諭吉が三田藩のブレーンであったことから、彼の啓蒙書 を大量に購入して、郷学で学ぶ者に頒布しています。退蔵は新政府から民部省への出仕を打診されますが、官吏の道を選ばず、九鬼隆義・小寺泰次郎らと神戸で志摩三商会を起こし、1880年には兵庫県会初代議員となっています。 その後も大蔵御用掛や岐阜県大書記官に就任したりしていましたが、1890年に突然辞職し、公務の傍ら勤めていた、旧主九鬼隆義の家宰の仕事に専念します。間もなく隆義は他界しますが、退蔵は寝食を忘れて看病したと言います。その後、退蔵自身も体調を崩し、1891年、2週間にも満たない闘病生活の後、隆義の後を追うようにして63歳で死去しました。儒学者に相応しく、主君への忠義を貫いた一生でした。 |
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三田藩の足軽の子として生まれた小寺泰次郎(1836〜1904)は、才能を認められ、農地開墾など、藩財政の建て直しに尽力し、明治以降は、実業家として大成しました。
長男の謙吉は、1877年、神戸市生田区の小寺邸(現在の相楽園)に誕生しました。名付け親は三田藩家老であった白州退蔵で、泰次郎に「君のように意地っぱりでは困るから、少し謙虚になるような名がよかろう。」と言って謙吉と名付けたと言います。 1894年に兵庫県立神戸商業学校に入学、その後、泰次郎の先見性によって、1897年アメリカに留学し、エール、コロンビア、ジョンズ・ホプキンス各大学で法律・政治学を修め、その後、1902年には、ドイツのハイデルベルク大学やオーストリアのウィーン大学で国際公法を勉強しました。 生前、福沢諭吉の提唱する理想的学園の設立を夢見ていた父の意志を引き継いだ謙吉は、欧米留学で自由な教育環境に触れた感動を日本で実現させたいという強い思いを抱き、イギリスのイートン・カレッジを模範として私立三田中学校、現在の「三田学園」を1912年に創設しました。 国政にも参加し、衆議院6回当選、戦後初の公選による神戸市長にも就任し、生涯をかけて民主教育と民主政治の実現に尽力しました。 |
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有馬ナビ霜月号では、三田の観光スポットをご紹介しました。 秋たけなわの三田〜有馬温泉にぜひお越し下さい。 (2004/10/31) |
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