国宝「姫路城」は、1993年に法隆寺とともに日本初の世界文化遺産に選ばれました。姫路城は神戸から西へ約50km離れた姫路市の中心部にあります。姫路には、新幹線だと新神戸からわずか16分、JR新快速では三宮駅から42分で着きます。また、4月18日(金)〜5月11日(日)まで、全国的なお菓子の祭典である「姫路菓子博2008」が開催されます。
築城後400年の姫路城観光の折には、有馬温泉の歴史的な温泉情緒と活気にあふれた街並みのご散策も合わせてお楽しみください。龍泉閣スタッフ一同お待ち申し上げております。
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姫路城は、通称「白鷺城(はくろじょう、または、しらさぎじょう)」と呼ばれます。このいわれには諸説ありますが、通説では、大天主と渡り櫓で連なった3棟の小天主が建ち並ぶ天守閣群と白く美しい白壁の広がりが翼を広げた白鷺を連想させるためとされています。この城は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての建築技術の最高水準を示すという理由で、1993年に法隆寺とともに日本で初めてユネスコの世界文化遺産に指定されました。
姫路城には数々の言い伝えが残っており、家康の孫娘である千姫や、宮本武蔵の妖怪退治、播州皿屋敷のお菊井戸など数多くの物語の舞台として有名です。
アクセス | ・JR新幹線で新神戸から16分、新快速で三宮から42分乗車し、姫路駅で下車。 駅の北出口より徒歩15分。または、神姫バスで「姫路城大手門前」下車すぐ。 ※土・日・祝日は「姫路城ループバス」が運行します。 ・中国自動車道「福崎IC」から播但連絡道路に入り、「花田IC」から県道397号線を姫路市街へ向かいます。 ・山陽自動車道「姫路東IC」から約15分。 |
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入城時間 | 9:00〜16:00(閉門 17:00) ※4月27日〜8月31日 9:00〜17:00(閉門 18:00) |
休城日 | 12月29〜30日(2007年末から12月31日は入城可となりました) |
入城料 | 大人 600円、5歳〜中学生 200円(1月1日は無料) ※姫路城・「好古園」共通券:大人 720円、小・中学生 280円 ※姫路城・博物館・美術館共通券:大人 800円、高校・大学生 720円、小・中学生 320円 |
駐車場 | 582台(有料) |
TEL | 079-285-1146 |
鎌倉時代の末期に、播磨国の上郡の豪族であった赤松則村は、1333年、後醍醐天皇に味方して、姫山に集結させた千二百騎の部隊を京都に向かわせました。その13年後の1346年に彼の次男、貞範(さだのり)が姫山に小さな山城を築きました。これが姫路城の始まりとされています。
秀吉が播磨一帯を平定すると、当時、姫路城を預かっていた黒田孝高(官兵衛)は、中国地方の毛利氏討伐の拠点として姫路城を献上しました。そこで、秀吉は、1580年から1年がかりでその山城を3層の本格的な天守閣に改築しました。しかし、関ヶ原の戦いの後、家康の次女を妻とする池田輝政が城主となると、秀吉の建てた姫路城を取り壊して、1601年から8年の歳月をかけて現在の5層の天守閣を持つ姫路城を築城しました。2001年には、築城400周年および国宝指定70周年を盛大に祝いました。
2009年秋から5年半かけて「平成の大修理」が行われます。大天守(高さ46m)の白壁の漆喰を塗り替え、7万3千枚の瓦を葺き替えるために、高さ52mの巨大な仮設の建屋を2010年度までに建設します。観光客は、2基のガラス張りの透明エレベーターで見学室(約300u)まで上り、ガラス越しに修復作業を見学できます。
1333年 | 播磨地方の豪族、赤松則村が後醍醐天皇の第一皇子、護良親王の命により挙兵。京に兵を進める途中、姫山に砦を築く。 |
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1346年 | 彼の次男、赤松貞範が姫山に山城を築く。 |
1441年 | 赤松満祐父子が足利義教を謀殺するが、幕府軍に攻められて自害。 山名持豊が姫路城主となる。 |
1467年 | 応仁の乱が起り、赤松政則が姫路城を陥落し領国を回復し、本丸と鶴見丸を築く。 後に、赤松一族の小寺氏の重臣であった黒田孝高が城を預かる。 |
1580年 | 中国地方攻略の拠点として、黒田孝高が豊臣秀吉に姫路城を献上。 秀吉が3層の天守閣を築き、1581年に完成。 |
1585年 | 木下家定が姫路城主となる。 |
1600年 | 関ヶ原の戦の後、徳川家康の次女の婿、池田輝政が姫路城主になる。 翌年、城の大改築を開始し、1609年に現存する5層の天守閣を含む大城郭を完成。 |
1617年 | 本多忠政が姫路城主になり、三の丸、西の丸、その他を増築。 |
1749年 | 酒井忠恭が前橋から姫路へ移り、明治維新まで酒井氏が姫路城主となる。 |
1869年 | 明治維新後の版籍奉還により姫路城は国有となる。 |
1931年 | 姫路城の天守閣群と渡り櫓(合計8棟)が国宝に指定される。 |
1951年 | 姫路城が新国宝に指定される。 |
1956年 | 天守閣群の解体修理に着工、1964年に全修理工事を完了。<昭和の大改修> |
1993年 | ユネスコの世界文化遺産に登録される。 |
2001年 | 築城400周年、国宝指定70周年を祝う。 |
2008年 | 築城完成後400年目、世界文化遺産登録15週年を祝う。 4月18日〜5月11日、姫路城周辺で「姫路菓子博2008」を開催。 |
2009年 | 2009年秋、「平成の大修理」を開始(5年半かけて大天守を修復予定) |
櫓門と呼ばれる形式で、二の丸の入口にあり、城内の門では最大。冠木に菱の紋が彫られている所から、こう名づけられています。
天守閣の西面が際立って見える庭園で、南門跡の近くには出陣する武者を集めて、隊を編成した武者だまりがあります。
家康の孫の千姫に仕えた侍女たちが居たところで、千姫は毎朝この廊下から男山を拝んでいたと伝えられています。
千姫が男山を拝んだ際に、この櫓を休息所としたので、この櫓が化粧の間、または化粧櫓と呼ばれていました。
天守台の西北の隅(乾の方角)に位置する小天守なので、こう呼ばれます。三つの小天守の中では最大で、外観は3層ですが、内部は地下1階・地上4階になっています。
天守台の東南の隅に位置し、外観は5層で内部は地下1階・地上6階になっていて、最上階の大棟の両端には1対の大鯱瓦(しゃちがわら)が飾られています。千鳥破風(ちどりはふ)・大千鳥破風・唐破風(からはふ)を組み合わせ、調和のとれた様式美を示しています。
城の裏口にある喜斉門(きさいもん)を指します。姫山の急な地形を利用して、門までの坂道を葛折(つづらおり)にし、途中に門を造って攻め難いようにしています。
城主が住んでいた本丸の一郭で、来客と対面する所もありましたが、1882(明治15)年の火災で焼失しました。
この櫓の石垣は城内で一番高く、約23mもあり、その石垣の上に、物見櫓と数寄屋風の建物が一まとめに造られています。内部には、湯気抜きの簀子(すのこ)があり、茶の湯に使用されたと言われています。
城内の上山里丸と呼ばれる広場にある井戸は、もとは釣瓶取(つるべとり)井戸と呼ばれていました。講談の「播州皿屋敷」に出てくるお菊が責め殺され投げ込まれた井戸だという言い伝えがあり、毎夜、「1枚、2枚・・・」と皿を数えるお菊の声が井戸の底から聞こえるそうです。
敵に石垣をよじ登らせないための工夫として、石垣の上の方が反り上がるようになっています。開いた扇の曲線に似ているというので、こう名づけられています。
ここには、数多くの門や櫓が配置され、敵が侵入しにくいように造られ、また、敵を狭い通路や、行き止まり部分に追い込むような構造になっています。
孔門と呼ばれる形式の門で、天守閣への近道となります。石垣全体が城内側に若干振られるように造られ、菱の門からこの付近が見えないので、ここを通る道は「間道」と言われています。
菱の門内にある空壕(からぼり)で、二の丸の本道と間道の要所を抑える重要な位置にあります。
国宝に指定されている城は、全国で松本城、彦根城、犬山城と姫路城の4つのみです。
国宝 (合計8棟) | 大天守(5層6階・地下1階)、西小天守(3層3階・地下2階)、乾小天守(3層4階・地下1階)、東小天守(3層3階・地下1階)、「い・ろ・は」の渡り櫓(各2層2階・地下1階)、「に」の渡り櫓(2層櫓門) |
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重要文化財 (合計74棟) | 化粧櫓、ニの櫓、折廻り櫓、備前門、水の一門、水の二門、菱の門、「い・ろ・は・に」の門、「ぬ」の門など |
1993年に世界遺産として登録されたことを記念して、一般公募によって、姫路城が最も美しく見えるお奨めスポット10箇所として選ばれたのが「世界遺産姫路城十景」です。
(1)シロトピア記念公園 ふるさとの森(2)景福寺公園(3)名古山 霊園高台公園(4)手柄山 緑の相談所広場(5)姫路城 三の丸広場(6)姫路市立美術館の前庭(7)増位山 市道白国増位線ポケットパーク(8)大手前通りJR姫路駅前(9)城見台公園(10)男山配水池公園
天守閣の高さ | 天守閣は姫山(海抜45.6m)の上に建っています。天守閣自体の高さは、石垣が14.85m、建物が31.5mなので合計すると海抜92m。 |
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心柱のサイズ | 東西に2本あり、根元直径95cm、末口42cm、高さ24.6m(地階から6階の床下まで延びている) |
敷地面積 | 内曲輪(うちくるわ)内の面積:23万u 外曲輪(そとくるわ)内の面積:233万u(東京ドームの約50倍) |
総重量 | 6200トン |
天守大鯱瓦 | 高さ約2m |
門の数 | 外曲輪(そとくるわ)まで含めると昔は84があったが、21のみが現存。 |
狭間の数 | 記録では3125個所だが、内曲輪の997個所中の約500個所が現存。 |
濠の幅と深さ | 幅は広い所で34.5m、平均で約20m。深さは平均 約2.7m |
年間登城者数 | 平均 約82万人 |
※西の心柱は、木曽国有林の樹齢780年の檜と地元 笠型神社の樹齢670年の檜を3階で継ぎ合わせています。以前の心柱は三の丸広場の入場券売り場右に展示されています。なお、東の心柱は、現在も昔からの古い柱が使われています。
1581年、秀吉が築いた3層の天守閣は、わずか20年後に取り壊されましたが、一部にその名残が見られます。
「ほ」の門をくぐり抜けた直ぐ上にある「油壁」は、砂と粘土を塗り固めたもので、コンクリートほどの強度を持ち、鉄砲の弾もはじき返すと言われています。
秀吉の城づくりの際、石垣用の石が不足していましたが、焼餅売りの貧しい老婆が石臼を差し出した所、その話が広まり、領民が我先きに資材を提供するようになったと言います。今でも天守の麓にある石が「姥(うば)が石」と呼ばれています。
黒田孝高の功績を称えて、彼の紋瓦が姫路城で使われましたが、今でも「に」の門の西面に残っています。彼がキリシタンに改宗していたため、十字架のイメージの文様です。
姫路城の白壁には、長方形、丸、三角などの穴が開いています。これは「狭間(はざま、または、さま)」と呼ばれ、見張りおよび、弓や鉄砲で攻撃するための覗き窓です。
弓は、長方形の窓、鉄砲は、丸や三角の窓が使用されました。天守閣と土塀を合わせると、約500個の狭間が残っていて、モダンな造形美を感じさせます。
破風(はふ)というのは、瓦屋根の切り妻に付いている山形の部分ですが、姫路城では、千鳥破風と唐破風が見られます。千鳥破風は、末広がりの三角をした屋根で、採光や換気などの目的などでつくられ、中には内室(うちむろ)と呼ばれる小部屋が隠されている場合もあります。唐破風は、上部が丸くなだらかに拡がる屋根で、姫路城の南にある大きな唐破風は日本で最大級のものです。いずれの破風も姫路城の景観に幾何学的な造形美を見せています。
姫路城でも、火災を避けるために、水に縁のある魚にちなんだ装飾が見られます。屋根の上に飾られた鯱(しゃちほこ)が有名ですが、破風にぶら下がっている装飾は、「懸魚(げぎょ)」と呼ばれ、魚を様式化したもので火除けのまじないです。
■白鷺城の名前のいわれは?<諸説あります>
* 黒い板張りの岡山城に対比して、白漆喰塗りの城を白鷺城と呼ばれた。
* 城のある丘(姫山)が別名「鷺山」とも呼ばれた所から白鷺城と呼ばれた。
* 城の形が白鷺の翼を広げて飛ぶ姿に見えた所から白鷺城と呼ばれた。
* 昔からこの地にゴイサギが多く棲んでいた所から白鷺城と呼ばれた。
■築城に要した人手は?
* 姫路城が現在の姿に近くなったのは、1601年着工の大改築によります。
* この工事は1601年→1609年まで、丸8年、足掛け9年かかったことになります。
* 動員された延べ人数は2500万人以上と推定されます。
■姫路城にいた侍の数は?
* 池田氏時代で300石以上の高禄の武士が500人余り。
* 本多忠政・忠刻父子の家来が1200人以上、足軽・小者まで加えると約4000人。
* 榊原氏時代で3000人。幕末に酒井氏が最後の城主であった頃は、約2200人。
■秘密の抜け穴は?
* 抜け穴があるとの伝説が昔からありましたが、調査の結果では、発見されていません。
* しかし、濠の中に水面下に隠された堤があり、歩いて濠を渡って脱出できます。
■姫路城が廃城に?
* 明治維新後の廃藩置県により、無用の長物となった各地の城は、保存に巨額の経費がかかるため、次々に売却・廃棄されました。
* 姫路城は競売の結果、姫路市内の神戸清一郎が23円50銭で落札しました。ところが、城の解体・撤去に多額の費用が要るというので、権利を放棄しました。
■天守閣が巽(たつみ)の方角に傾く
* 姫路城完成時に、城が巽(東南)の方に少し傾いているというので、自分の測量ミスだと責任を感じた大工の棟梁・桜井源兵衛が天守閣から身投げしたと伝えられています。
* 実際に城が東南に傾いていたということは解体修理で確かめられています。本当の理由は、東と西の石垣が沈んだため城が傾いたのでした。
■剣聖 宮本武蔵の妖怪退治
* 木下家定が城主であった折に、姫路に立ち寄った武蔵が客分に取り立てられました。
* 城に出る妖怪退治の命が下った武蔵が灯一つを持って天守閣に行き、凄まじい炎や地震のような音と振動に遭いましたが、構わず天守閣の上まで登り、明け方までいた所、城の守護神の刑部明神が現われ、妖怪退治の褒美として名刀を授けたと言います。
「好古園」は、市制100周年を記念して建造された約3.5haの回遊式日本庭園で、文化財の保全と活用を兼ねた新しい文化の場として1992年に開園しました。
この名称は、かつての藩校「好古堂」にちなんで命名されました。整備前の発掘調査で、1618年に本多忠政が造営した西御屋敷や武家屋敷、池、屋敷門、町筋などの遺構が確認されました。屋敷割や通路の地割を生かした大小9つの庭園および樹林帯と広場から成っています。庭園内には築地塀、屋敷門、長屋門や渡り廊下で結んだ2棟の休憩所「活水軒・潮音齋」と茶室「双樹庵」があります。姫路城西の丸一帯の原生林を背景とする「好古園」を散策しますと、江戸時代にタイムスリップしたような見事な景観をお楽しみいただけます。
アクセス | 姫路駅の北出口より徒歩15分、または、神姫バスで「姫路城大手門前」下車。 ※土・日・祝日は「姫路城ループバス」が運行 |
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入園時間 | 9:00〜16:30(閉園 17:00) ※4月27日〜8月31日 9:00〜17:30(閉園 18:00) |
休園日 | 12月29日〜30日(行事開催時には休園) |
入園料 | 大人 300円、小・中学生 150円 ※姫路城・「好古園」共通券:大人 720円、小・中学生 280円 |
TEL | 079-285-4120 |
「姫路城で花開く平成の菓子文化」というテーマで、全国菓子大博覧会が2008年春に姫路城の周辺で開催されます。「第1回帝国菓子飴大品評会」が1911年に東京で開催されたのを皮切りに、その後、数年おきに全国各地で開催されてきている、既に100年近い歴史と由緒のあるお菓子の全国的な祭典です。第10回から現在の全国菓子大博覧会という名前に改称されました。また、この博覧会に出品されたお菓子の中から、名誉総裁賞・内閣総理大臣賞・農林水産大臣賞などが選定されます。日本各地から集まったお菓子の展示・販売を始め、菓子職人による工芸菓子の披露、伝統・歴史の紹介など、お菓子に関するあらゆるものや情報が一堂に会する会場にぜひお越しください。
開催期間 | 2008年4月18日(金)〜5月11日(日) |
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開催時間 | 9:30〜17:30 |
開催場所 | 姫路城周辺の公園や施設 |
入場料 | 大人(満18歳以上、ただし高校生は除く)2000円、 シニア(2008年5月11日までに満65歳以上)1600円、 高校生 1400円、中学生 800円、小学生以下(大人が同伴の場合)無料 ※2008年4月17日まで前売入場券を発売中です。 |
目標入場者数 | 50万人 |
有馬ナビ新年号では、世界文化遺産の「姫路城」をご紹介しました。次号では、「西宮の観光スポット:後篇(山の手)」について特集します。神戸〜有馬温泉へ、ぜひ、お越しください。(2007/12/31)
※このページは2007年12月に発行されたものです。
最新の有馬温泉と周辺観光地の情報は『龍泉閣日記』をご覧ください。
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神戸有馬温泉の旅館 元湯龍泉閣
こうべありまおんせん もとゆ りゅうせんかく
【 http://www.ryuusenkaku.jp/ 】
〒651-1401 兵庫県神戸市北区有馬町ウツギ谷1663
TEL:078-904-0901 FAX:078-903-0099
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