“Arima Navi” web site navigator We publish a monthly newsletter, “Arima Navi”, on our web site, which features hot topics for sightseeing in the Kobe, Mt. Rokko, and the Arima Onsen, the hot springs resort area. In this issue, we will introduce the “Kobe Shichifukujin”, or “The Seven Lucky Gods in Kobe”. |
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七福神の中で唯一の日本の神様です。「戎」・「夷」・「蛭子」とも表記されます。イザナギ、イザナミの間に生まれた蛭子尊(ひるこのみこと)であると言われます。3歳になっても歩けなかったため、葦の舟に乗せて捨てられ、やがて漂着した摂津国西宮の浦の住民によって祀られたと伝えられています。 左手に鯛を抱え、右手に釣竿を持った親しみ深い姿で、“エビス顔”と言われるような満面の笑顔を湛えています。 元は、漁師の神ですが、中世には航海の守護神としての信仰も起こり、さらには、市場の守護神、商売繁盛、交易の神様として今も信仰を集めています。また、一説には、大国主命の子の事代主命(ことしろぬしのみこと)とか、山幸彦(やまさちひこ)とも言われます。西宮の戎神社は、元来、広田神社の末社でしたが、商業の発展とともに、大坂・堺を中心とする庶民の信仰を集めるようになりました。 |
境内にある末社7社の中で一番奥にある、他の末社よりも大きめの楠宮稲荷社は、“赤えいの絵馬”で全国的に有名です。 その昔、おいしくて貴重な赤えいを食べるのを断ち、願掛けをすると、痔に効いたという言い伝えから、赤えいの絵馬を奉納すると、痔病が治るという信仰があります。 楠宮稲荷社裏にそびえる楠は、幹回り約5m、樹高約30m、樹齢推定800年の巨木で、古来、ご神木として崇敬されています。
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毎年2月の節分に長田神社で行われる追儺(ついな)式は、その年に人々に降りかかる災いを鬼がすべて祓うという厄除けの神事です。7人の鬼が松明(たいまつ)を振りかざし、神のお使いとして、災厄を焼きつくし祓う踊りをします。その起源は、室町時代まで遡ると言われ、よく古式豊かな様式を今に伝えている所から、1970年、鬼面7面とともに県の重要無形民俗資料に指定されました。 |
事代主神が「鶏の声聞える里は、吾が有縁の地なり」と仰せられたという言い伝えから、古来、氏子は、ニワトリを神の使いとして大切にし、戦前まで多数のニワトリが境内に放たれていたため、“ニワトリのお宮”として、また、外国人からも“チキン・テンプル”として親しまれていました。 |
長田から苅藻川をさかのぼって行きますと、白川に通じる長坂越えと呼ばれる山道がありますが、この道端に富士山のような形をした石がありました。長田の村人は、長田神社の庭石にしようと考え、その石を運びおろし、神社に納めました。 長田神社の神主は、見事な石だと気に入って、平野の自宅に持ち帰りました。夜も更けた頃、神主の家では、どこからともなく、すすり泣くような声がしました。“シクシク、長田へ帰りたい。シクシク、長田へ・・・”と聞こえます。調べてみると、庭に置いた富士山の形の石から聞こえ、しかも石の表面がじっとりと濡れていました。驚いた神主は、翌朝、その石を再び神社に運び込み、境内に安置しました。 |
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七福神の中で唯一の女神で、元来は古代ヒンズー教の川の神でした。3大主神の1つブラフマン神(梵天)の娘にして妻であるサラスヴァティです。サラスは水を、ヴァティは持つもの(富むもの)を意味します。やがて、音楽や詩の神となり、日本に伝わった当初は、“弁才天”と呼ばれました。 その後、財宝・芸術に関係の深い吉祥天の性格が吸収されて、“弁財天”、“弁天様”と言われるようになり、今では、知恵、財宝、愛嬌、縁結びの徳があると言われています。 インドでの姿は、蓮の葉の上で白鳥か孔雀を従え、弦楽器のヴィーナを持っています。穢れを払い、富貴・名誉・福寿・勇気・愛嬌・縁結びの徳、それに子孫を恵む神であるとともに、学問と音楽などの技芸の神、雄弁と知恵の保護神でもあるという非常に有り難い神様として信仰されてきました。鎌倉時代になると、ヴィーナに似た形の琵琶を弾く美貌の女神像が一般的になりました。 今でも、水辺近くに祀られていることが多く、全国各地に「弁天島」が数多く見られます。なお、日本には白鳥や孔雀がいないためか、弁天様のお使いは、白蛇となっています。 |
源平合戦の古戦場として有名な「生田の森」は、現在では、すっかり狭くなっていますが、樹齢300年の巨木があり、往時の雰囲気が残っています。「一ノ谷の戦い」では、この付近が長大な陣地の大手口に当たり、平家の軍事面の統率者である平知盛が守備していました。 「枕草子」の中で、“杜(もり)は、布留の杜、生田の杜、旅の杜”と述べられていますが、これは、生田の森や生田の浦が古来数多くの和歌に詠まれ、有名であったためと思われます。平安の昔から多くの歌に詠まれている神なびの森で、月や花の名所として高名でした。 ・月残る生田の森に秋ふけて夜寒の衣夜半にうつなり 後鳥羽院 ・秋かぜに又こそとはめ津の国の生田の森の春のあけぼの 順徳院 ・汐なれし生田の森の桜花春の千鳥の鳴きてかよへる 上田秋成 ・津の国の秋は生田の池水に森の梢のかげを見る哉 家衡 ・あはれなり生田の池のあやめ草いかなる人の根かかよひけむ 為家 |
源平合戦の時、頼朝配下の梶原景季が境内に咲いている梅の一枝を折って、箙(えびら:矢を入れて背中に背負うケース)に挿して奮戦したというエピソードから、こう呼ばれています。『箙』という謡曲にも謡われ、平家物語・源平盛衰記などにも記されている所から、昔から梅の名所とされています。 |
悲劇の武将、平敦盛は、深く萩の花を愛したとされています。その死後、敦盛の遺児が父の消息を知りたくて、京都から神戸までやって来て生田神社に参詣した折に、玉垣に亡き父が現れるという情景を謡った『生田敦盛』という謡曲があります。 |
当初、生田神社は、布引滝付近の砂山(いさごやま)に祀られていて、海上からの目印にもなっていましたが、799年の大洪水で砂山の麓が崩壊したため、ご神体を背負って、現在地に逃れたと伝えられています。 元の社殿が倒壊した松の木によって潰されたという故事から、松を嫌ったため、生田神社の境内には松は1本もなく、ほとんどが楠です。正月には門松の代わりに“杉盛り”を楼門に立てます。 |
生田神社は、摂津における酒造の発祥地とされています。 新羅の朝貢使などに供する神酒は、生田・長田・広田の三神社、および、大和片岡神社から各50束を集めて、生田神社で神使が酒造りをして、船の寄港地である汝売崎(みねめざき)において、その神酒を饗応したと伝えられています。 |
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名前自体が“幸福、身分・財産、長寿”を表わす誠にめでたい3文字からなるという、道教の長寿神です。南極老人星(竜骨座カノープス星)の化身とされる北宋の仙人です。 カノープス星は、北半球の緯度の高い地域では地上ぎりぎりに見える星で、古来、中国では、「この星を見ると寿命が延びる」と言われていました。長い頭、長い顎鬚、大きな耳たぶを持ち、年齢は千歳とか、千万歳とか言います。長寿、幸福の徳を持ち、鶴と亀を連れて、左手に宝珠、右手に巻物を括り付けた杖を持っており、招徳人望の神様として信仰されています。 |
宝物殿館の中央のガラスケースの中の黄金製厨子(ずし)の中に納められています。笛は2本あり、1本は高麗笛で、もう1本が「青葉の笛」で、別名を「小枝(さえだ)の笛」と言います。須磨寺の言い伝えでは、弘法大師が唐へ留学した時に青葉の笛を作ったとされます。その笛から3本の小枝と葉が芽吹いたため、珍しいということで帰国後、嵯峨天皇に献上しました。平家物語によると、この笛は鳥羽の院より平忠盛に与えられ、その後、清盛の甥の敦盛が愛用していたのを源平合戦後、義経が須磨寺に納めたと伝えられています。 |
仁王門をくぐって直ぐ右側に、2000年春に新しく建てられた手水場があります。ここに手水場の建設を計画した際に、弘法大師の宝前でお祈りすると、きれいな清水が山中で湧き出すことが分かり、弘法大師に因んで「五鈷水(ごこすい)」と名付けられました。鈷というのは、元来、古代インドの武器で、仏様が手に握って煩悩を打ち砕く法具を言い、両端が五つに分かれているのが「五鈷」です。この手水場には、四国の石鎚山の麓で見つけられた、高さ2.7m、重さ13トンの大岩が置かれています。僧が座っている姿に似ており、弘法大師を偲ばせるという所から「弘法岩」と名付けられ、五鈷は胸のあたりに置かれています。 |
今から800年前の平敦盛・熊谷直実の一騎討ちの場面を再現した庭です。当時16歳の敦盛が一の谷の浜辺で、源氏の猛将直実に討たれたお話は、平家物語の中でも、特に哀れで美しいエピソードとして語り継がれています。庭前には、“笛の音に波もよりくる須磨の秋”という蕪村の句碑があります。庭の隅には、弁慶が“一枝を伐らば一指を剪るべし”という制札を立てたとされる、歌舞伎にも登場する「若木の桜」があります。 |
一ノ谷合戦の戦勝後、義経はこの松に腰を掛けて敦盛の首を実地検分したと伝えられ、「義経腰掛松」と呼ばれ、横にある池で、その首を洗ったと言われています。 |
この首塚(五輪塔)は、敦盛の菩堤を弔うために建立されたもので、かつて、この塚に笛を納めて子供の健康を祈る習慣があったと言います。なお、須磨浦公園にある敦盛塚は胴塚と呼ばれています。 |
西寄りにある「納骨堂」のさらに西側に竹の密生した場所があり、「神功皇后釣竿竹」と呼ばれています。神功皇后が新羅への遠征の帰途、占いをするため、佐賀県の松浦川で鮎釣りをしたと日本書紀に書かれていますが、その折の釣り竿をここに埋めたところ、竹が芽生えたと伝えられています。 |
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有馬ナビ文月号では、先月号に引き続き、神戸七福神をご紹介いたしました。創刊号以来、神戸・六甲・有馬の歴史的な観光スポット中心にご紹介してまいりましたが、次号からは、装いも新たに再スタートする予定です。是非ご期待下さい。(2005/6/30) |
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