源平合戦・後編

有馬ナビ如月号では、新年号に引き続き、「源平の合戦」に所縁のある観光スポットについて特集しました。
今回は、神戸の須磨地区を中心とする、「義経と一ノ谷の合戦」にまつわる名所旧跡および源氏方の登場人物をご紹介します。

また、有馬温泉には、新しいお店が次々とオープンしております。温泉街をご散策の折にお奨めというお店を2軒ご紹介します。神戸〜有馬温泉へお越しの際には、是非お立ち寄り下さい。














京都を中心に頼朝と義仲が衝突を繰り返しているころ、北九州の大宰府に落ちのびていた平家は勢力を盛り返し、中国、四国、北九州の土着の武士を巻き込みながら京を目指し始めました。播磨に到着した平家は、摂津の福原に前衛基地を築き、ここを拠点に京に攻め込もうとしていました。このころ、後白河法皇は、頼朝に平家追討の宣旨を与えていたにもかかわらず、安徳天皇と三種の神器が平家方の手にあったため、思い切った策が打てず、悩んでいました。そこで、法皇は和平の使者を派遣し、安徳天皇と三種の神器の安全を図る一方、源氏には平家追討を命じるという和戦両用の策を推進します。
平家が法皇の真意を計りかねている間に、着々と攻撃態勢を整えた義経ら源氏の諸将は、一気に一ノ谷の合戦を仕掛けます。義経軍が丹波路を迂回して一ノ谷の背後を衝くと、一方の範頼軍は平家の正面である生田の森を攻めるという狭撃戦法を立てます。そして、1184年1月26日に京を出陣し、総攻撃を2月7日の午前6時と定めます。一方、平家軍は、正月から2月の初めにかけて一ノ谷の陣地を固め、義経軍1万騎が丹波路を進んでくるという事前情報を得ます。そのため、重要な戦略防衛拠点だった三草山の西に陣を張り、これを迎え打つ作戦を採ります。ここの守備は、大将軍・平資盛、有盛、師盛兄弟に率いられた7万人の軍勢でした。
2月5日、義経軍3千人は12km離れた三草山の東に陣取った後、京からの強行軍の疲れをとる間もなく、直ちに夜襲攻撃をかけます。闇の中で大軍を移動させるため、義経は、あらかじめ無数の松明を用意させ、三草山に通じる山道を眩いばかりに照らし、一気に12kmの道を突き進んだため、平家方は、突如あらわれた源氏の大軍に不意打ちをくらい大混乱に陥り、壊滅します。
義経軍は三草山を制した後、翌2月6日朝には敗走する平家軍を追って播磨の三木あたりまで進軍し、軍勢を安田義定ら7千騎と畠山重忠以下3千騎の二手に分け、自ら畠山兵3千を率いて鵯越の山道を福原に向かいます。一方の7千騎の主力部隊には明石沿いに平家軍を追討させ、さらに明石を迂回すると一ノ谷の西側から平家の軍営を攻撃させます。義経は鵯越から夢野に出る本道を進んでいましたが、平家軍の布陣状況を知ると、自らわずか70騎のみを率いて6日夜に高倉山、鉄拐山を越え、一ノ谷の陣営の背後に回ります。この70騎の案内役は、この山の猟師の息子でした。
7日午前6時、熊谷直実以下わずか5騎が一番乗りで平家陣営を攻めます。多勢に無勢で次々に傷を受ける中で、明石方面を迂回して来た義経軍の主流である7千騎が城戸をめざして突入してきたため、熊谷直実らは討死を免れます。大手の城戸の防衛にあたっていた平家軍は高櫓の上から豪雨のように矢を降らせると、立ち往生する源氏方に対して、城戸を開き、一気に2千余騎の兵を突入させました。
7日午前8時過ぎ、鉄拐山の東南壁から眺めると、はるか麓の一ノ谷の陣営は、激闘のさなかで敵味方入り乱れていました。義経が3頭の馬の鞍を外させ、断崖から突き落とすように走らせると、それぞれ平家の陣営の屋根の上に叩きつけられた後、身震いしながら立ち上がります。そこで、義経は、全陣に馬で下まで駆けおりるように命じ、自ら、単騎で駆け出すと、逆さに落ちていき、部下も続きました。こうして、背後から奇襲を受けた平家の本陣は大混乱に陥ります。さらに陣屋の一部から出た火が西風を受け、黒煙が広まったのを見た平家軍の戦意は喪失し、平家軍は総崩れとなり、海に向かって敗走します。
一ノ谷の合戦では、義経の奇襲攻撃により平家は総崩れとなり、船で沖へ逃げようとしました。義経軍の勇将であった熊谷直実が先陣争いに勝って海岸まで敗走する平家を追いつめてくると、馬を泳がせて沖へ進もうとする立派な鎧の若武者を発見します。そこで、義経軍が「そこへ行く平家の大将!卑怯にも敵に背を見せなさるか、引き返されい!」と扇で招き寄せると、若武者は馬の向きを変え、海岸に戻ってきました。そこで、無双の豪傑として名高い直実が組み伏せて兜を脱がせると、自分の息子、直家と同じ年頃で、しかも薄化粧をして公家のようにお歯黒までしている美少年でした。
首を落とされようというのに、悪びれず動じた様子がないので、直実は命を助けようと思いましたが、味方が50騎近くも駆けつけてきたため、断腸の思いで刀を振り下ろし、その首を討ってしまいます。直実は、若武者の腰に一管の笛が挿してあるのにふと気付いて、夜明け前の城中から笛の音が聞こえていたことを思い出します。「あぁ、何と哀れなことだ。戦いの始まる前に風雅をたしなむとは!源氏側には東国武士が何万騎といるが、戦場に笛を携える者は一人もいないだろう」と、源氏の荒武者でさえ心を動かされたというエピソードです。
一ノ谷の合戦における平家方の戦死者は千余人に上っており、和歌を愛した平忠度の他にも、経正、師盛、清房、業盛ら主だった平家の武将が討ち取られています。実は、この若武者は、17歳になる平家の公達(貴公子)で、横笛の名手であった平敦盛でした。後に、直実はその時の無常感から京都の黒谷に行き、修行中の法然上人の弟子になったという言い伝えがあります。今でも黒谷の金戒光明寺には、彼が出家する時に着ていた鎧をかけたとされる「鎧掛けの松」の横に、敦盛と直実の供養塔が並んで立っています。




「敦盛塚」は、須磨寺境内の"首塚"に対して、"胴塚"と呼ばれています。須磨浦公園、三の谷の西、国道2号線の北にある大きな五輪の石塔で、地上部の高さが約3.5mあります。この石塔は、従来、清盛の甥の平敦盛の供養塔だと伝えられてきましたが、今では、北条貞時が1286年に平家一門を供養するために建立されたとされています。大正時代には、子供の病気の神様としてお参りに訪れる人が絶えず、お礼参りには青葉の笛になぞらえて、穴をあけた竹に紙を巻き、水引をかけたものを奉納したと伝えられています。



安徳天皇は、清盛の娘である建礼門院徳子の子で悲劇の幼帝です。
1185年、壇ノ浦の戦いで平家滅亡とともに、祖母の二位尼に抱かれ入水されたと伝えられています。

安徳帝内裏跡地に祀られているのは、安徳天皇の冥福を祈って建立された安徳宮で、現在は一ノ谷公園内にあります。


神戸市中央区、JR・阪急「三宮駅」の北に生田神社があります。「一ノ谷の戦い」の際には、この生田神社の付近は、長大な陣地の大手口に当たり、平氏の軍事面の統率者とも言うべき知盛 が守備していました。神社境内には、梶原景季の「梅箙(うめえびら)」の碑や、謡曲「生田敦盛」の碑などがあります。


源平合戦のときに、扇の的を射落としたとされる弓の名手の那須与市宗隆がこの北向厄除八幡神社を守護神として戦場に臨み、武運を全うしたとされます。

その後、お礼のため、この地を訪れ参詣しましたが、急な病にかかり、死去したという伝説があります。


神戸市須磨区の須磨浦公園は、一ノ谷の合戦の戦場として知られる鉢伏山と須磨浦海岸一帯に整備された自然豊かな公園です。春はヤマザクラやソメイヨシノが山裾を染め、桜の名所としても有名です。ベンチも完備しており、海を眺めながらユックリ休憩できます。

公園内には、源平の史跡「戦の濱(いくさのはま)の碑」があります。都を逐われ西海をさまよった平家でしたが、屋島に本拠を構えて勢力を盛り返し、要害の地である 「一ノ谷」 に前進基地を築き、都を奪還する機会を狙っていました。しかし、1184年 2月 7日、源氏との合戦で、義経の奇襲作戦、つまり“一ノ谷(鵯越え)の坂落とし”によって大敗した平氏は、この浜辺から屋島を目指して船で退却します。


神戸市須磨区の「須磨寺」は、正式には福祥寺という真言宗のお寺で、886年の創建です。地元では「須磨のお大師さん」として親しまれてきました。室町時代の「宮殿」(本堂の奥にある内陣)、仏壇、十一面観音像などの重要文化財の他、源平ゆかりの史跡も数多く残っています。

境内には、平敦盛と彼を呼び止める熊谷直実の像がある他、「敦盛の首塚」や、義経が敦盛の首実検をした時に腰掛けたという「義経腰掛松」、敦盛の首を洗ったという「首洗池」 などもあります。無料開放の宝物館には、敦盛が愛用したと言われる「青葉の笛」や「弁慶の鐘」などが展示されています。

境内には与謝蕪村や正岡子規の句碑など、25種の句碑、歌碑、文学碑が並んでいます。碑文の一覧と句碑の場所を示す散策マップを無料配布しています。また、門前の北東角に地下水が湧き出ており、「須磨霊泉」と呼ばれていますが、須磨寺町の堂谷池周辺に源泉があると言われています。



「青葉の笛」は、宝物殿館の中央のガラスケースの中の黄金製厨子(ずし)の中に納められています。笛は2本あり、1つは高麗笛で、もう1つが「青葉の笛」で、別名を「小枝(さえだ)の笛」と言います。

須磨寺のいい伝えによると、弘法大師が唐へ留学した時に青葉の笛を作ったとされますが、その笛から3本の小枝と葉が芽吹いたため、珍しいということで帰国後、嵯峨天皇に献上しました。それが、後に平家一門の手に渡り、平敦盛の愛用するところとなりました。



関守稲荷は、「須磨の関」の守り神として祀られたと伝えられ、境内には百人一首で知られる源兼昌の碑があります。
なお、関守稲荷神社では、源氏物語で光源氏が須磨に流された時、巳の日祓をした所をここになぞらえており、「巳の日稲荷」とも呼ばれています。


1184年2月7日、源平合戦の折に東門生田の森の副大将であった平重衡は、源氏の軍勢を防ぎきれず須磨まで落ち延びましたが、ついには生け捕られてしまいました。

山陽電鉄の須磨寺駅前には、平重衡とらわれの遺跡の碑が建っていますが、かつて、ここに彼が腰を掛けたと伝えられる大きな松があったため、合わせて「平重衡とらわれの松跡」とも呼ばれます。


神戸市兵庫区にある願成寺は、天平年間(729〜748)に行基によって開山された浄土宗のお寺です。

安置されている千手観音立像は国指定重要文化財になっており、境内には、源平合戦で討ち死した平通盛とその夫人である小宰相の局の墓という五輪塔があります。




有馬町内にも源平ゆかりの史跡があります。奈良時代に行基が開き、仁西が中興したと言われる温泉寺のお堂の両脇には、鎌倉時代末の作とされる五輪塔が2基ありますが、左側が平清盛(総高267cm)と右側が慈心坊尊恵(総高232cm)の五輪塔と伝えられています。
慈心坊尊恵は、清澄寺(宝塚市清荒神)から温泉寺清涼院に移ってきました。自ら書き記した『冥途蘇生記』(清澄寺蔵)や『平家物語』によると、1172年に閻魔庁の法会に招かれ、自分の後生を尋ねたついでに、清盛が和田の浜で千僧供養を営んだと伝えました。すると、閻魔大王は喜び、清盛が高僧・慈恵僧正の化身で天台の仏法を護持するために再誕したと告げて、大王が毎日3度、清盛を礼賛して読む偈文を託しました。尊恵は蘇生してから閻魔大王の文を清盛に届け、清盛を大いに喜ばせたと言われています。





梶原景時は、鎌倉幕府初期の有力御家人で、梶原氏3代目の当主です。桓武平氏の家柄と称し、正式には平景時と名乗っていました。官位は刑部丞で、侍所所司や厩別当という役職でした。和歌を好み、武家百人一首にも選出されています。1180年の石橋山の戦いでは平家軍に属し、大庭景親の下で源頼朝と戦いますが、敗軍の将、頼朝を見逃してその危機を救い、後に重用されるようになります。頼朝が勢力を回復すると、その平家追討軍に参加し、播磨の美作守護職を与えられます。
1184年に義仲追討軍に従軍し、1193年には頼朝の命で、伊豆の修善寺に流された源範頼を攻め、謀殺します。頼朝の死後は、源頼家を補佐しますが、頼家に結城朝光を讒訴したことから三浦氏・和田氏ら幕府の有力者と対立し、1199年には諸将66名の連伴状により鎌倉から追放されます。1200年、源氏の武田有義を将軍に擁立しようと図って、所領の相模国一ノ宮より上洛する途中、駿河の清見関で幕府軍と戦闘し、息子の景季と共に討たれてしまいます。

佐藤忠信は、義経の家臣団の中では、四天王の一人として高名でした。奥州の藤原氏に仕える家柄でしたが、1180年、義経が頼朝を助けに鎌倉に行った際に、藤原秀衡の命により兄・継信とともに随行し、平氏追討軍の一人として壇ノ浦の合戦まで戦い抜きます。その後、義経が頼朝の許可なしに官職を得たことから不和になり、吉野山に逃れた際にも随行しました。頼朝の追っ手から義経を逃すために単身で切り込んだ後、京都の義経の館に戻って北条時政の軍と戦い、そこで自害しました。

北条時政は、坂東平氏の枝族とされる、伊豆国の土豪で、通称は北条四郎。頼朝が伊豆に流された際にその監視役となりますが、娘の北条政子が頼朝の妻となった縁から、1180年の頼朝の挙兵に味方します。その後は、頼朝配下の有力重臣として活躍し、1185年の平氏滅亡後、頼朝の命を受けて上洛し、朝廷との交渉に当たって、守護と地頭の設置を認めさせています。幕府が創立されると重用され、頼朝の外戚として勢力をふるいます。1199年、頼朝が死ぬと北条氏の権力強化を図って、有力御家人であった梶原景時や源頼家の外戚に当たる比企能員らを殺害します。
頼家を将軍から廃した上で1204年に伊豆国修善寺で殺害するなどして政敵を排除しました。そして頼家の後継者として、その弟の源実朝を擁して自らは執権職に就きました。1205年には有力御家人の畠山重忠父子を謀反の罪で滅ぼし、さらに同年7月には後妻の牧の方と共謀して娘婿にあたる平賀朝雅を新将軍として擁立しようとしたが、子の北条義時と政子の反対にあって失敗し、強制的に出家させられた上で隠居となり、そのまま生涯を終えます。

源義経は、源義朝の末子で母は常盤御前、幼名は牛若丸と言いました。平治の乱で父が討たれ、母はまだ乳飲み児の牛若丸ら息子達の助命を求め、清盛の庇護を受けました。仏門に入るために送られた鞍馬寺で清盛が父の仇と知り、やがて遠く奥州平泉まで落ち延び、奥州一円を治める藤原秀衡の下で育ちます。異母兄の頼朝が挙兵すると、平家追討軍に加わって兄範頼とともに東国武士を率いて上洛し、義仲や平家一門を追討します。当時の合戦の作法を無視した奇襲戦法によって連戦連勝しました。しかし、頼朝の許可なく官位を受けたために不仲になり、奥州に逃れて、藤原秀衡の保護を求めます。間もなく秀衡が病没し、その息子の泰衡に裏切られ、殺害されます。

源行家は、源為義の十男です。熊野の新宮に住んでいたため新宮十郎とも称しました。平治の乱後は隠棲していましたが、源頼政に召し出され、以仁王の平氏追討の令旨を各地の武士に伝達しました。頼朝に疎まれて、義仲とともに上洛します。後に、頼朝と不和になった義経に味方し、和泉で頼朝の兵に殺されました。

鎌倉幕府の初代将軍となった源頼朝は、大阪の南河内を本拠地とした河内源氏の子孫です。源義朝の三男で、母は尾張国の熱田神宮の大宮司・藤原季範の娘です。正室は北条時政の娘の北条政子で、頼家、実朝、大姫、乙姫らの父です。幼名は鬼武丸で、鬼武者・幡屋武者王とも呼ばれました。尾張国、あるいは京都の生誕とされます。
1159年に院の近臣における源氏と平氏の対立から起こった平治の乱で敗北し、父の義朝は殺されます。頼朝は平家方に捕らえられ一時は死刑と決まるが、伊勢平氏で、清盛の継母である池禅尼の助命嘆願により、伊豆の蛭ヶ小島(ひるがこじま:静岡県韮山町)に流罪とされます。伊東祐親・北条時政らの監視下に置かれ、祐親の娘の八重姫との間に千鶴丸が生まれますが、祐親に仲を裂かれ、千鶴丸も殺されます。
1180年に以仁王の令旨を受け、坂東武者を従えて挙兵します。伊豆国の目代・山木兼隆を殺害しますが、相模国の石橋山の戦い(神奈川県小田原市)で敗北します。この際に平家方の武将であった梶原景時に見逃してもらい、頼朝らは、真鶴岬から安房国へ逃れ、そこで千葉常胤らに迎えられます。勢力を整えた後、富士川の戦いで平家軍を破り、関東を平定して鎌倉に本拠を構えます。その後、弟の範頼と義経を平家討伐の指揮官として派遣し、1185年には壇ノ浦の戦いで平家一族を滅ぼします。
同年、後白河法皇の策略に乗った義経との対立が生じると、上洛して後白河法皇から義経の追討令を受け、その捜索という名目で朝廷に守護・地頭の設置を認めさせ、1189年には阿津賀志山の戦いで奥州藤原氏を討伐します。後白河法皇の没後、1192年に征夷大将軍に任じられ、鎌倉幕府を開きましたが、1199年、相模川架橋の式典に参列した際の落馬事故が原因で患い、53歳で死去しました。

鷲尾経春は、一の谷の合戦の際、義経一行に鵯越え(ひよどりごえ)のルートを案内した地元の猟師です。1184(元暦元)年の一ノ谷の戦いの際、義経を鵯越へと案内します。それを機縁として、以後は義経に従い、1189年、義経の最後に殉じた。そして召し抱えられたのが、鷲尾経春でした。当時、彼にはまだ名がなく、三男だったので、彼を気に入った義経が自分の名の一文字を与え、鷲尾三郎経春と名乗らせました。

熊谷直実は、現在の埼玉県熊谷市の出身で、幼いときに父を失い久下(くげ)直光に養われました。通称を次郎直実という、頼朝に仕えた勇猛な武将で、平家軍との一ノ谷の戦いで活躍しました。笛の名手と言われた平敦盛と戦い、まだ若年の相手を逃がそうとしたが、人目があるため、止むを得ず討ち取ったと伝えられています。1192年、久下氏との所領争いに敗れたことから、蓮生(れんしょう)という法名を名乗って出家し、出奔しました。

藤原秀衡は、奥州藤原氏の3代目の当主で、1170年、鎮守府将軍に任命されます。1174年頃から鞍馬山を脱出してきた義経を匿って養育します。1180年、頼朝の挙兵に際し、佐藤継信・忠信の兄弟を付けて義経を送り出します。1181年には陸奥守となり、東北地方のほぼ全域を完全に支配下に置きます。1187年、頼朝に追われてきた義経を再び平泉に匿いますが、同年の内に病没します。その後、彼の息子の泰衡は、父の遺言に背き、義経を殺害します。

源範頼は、河内源氏の流れを汲む源義朝の六男で、母は現在の浜松市の遊女でした。頼朝の異母弟で、義経の異母兄です。蒲冠者とか、蒲殿とも呼ばれました。三河国に生まれ育った後、藤原範季に養育され、その一字を取り「範頼」と名乗りました。兄の頼朝の下にいつ頃か馳せ参じており、1183年、常陸の志田義広を討伐するため、出陣し、以後は、頼朝の代官として大手の大将となり鎌倉軍を率いることになります。1184年1月、宇治・粟津の戦いで義仲を滅ぼし、同年3月の一ノ谷の戦いでは、義経の奇襲攻撃のお蔭で平家に大勝します。
同年10月、範頼は中国地方を制圧し、九州を攻略するため、出陣します。備前・児島の戦いで平氏に勝ちますが、瀬戸内海の制海権は、平家の水軍に押さえられて、遠征軍は兵糧不足に陥ります。その救援のため、頼朝は義経を出陣させますが、範頼は周防で漸く兵糧と船を調達し、九州に渡ります。この間、義経は屋島の戦いで勝ち、1185年3月の壇ノ浦の戦いで平家を滅亡させます。

その後、九州において鎌倉幕府の支配を確立し、翌年鎌倉に帰ります。1193年の曽我兄弟の仇討ち事件に際して頼朝に謀反の疑いをかけられて伊豆の修善寺に幽閉されます。頼朝の命を受けた結城朝光・梶原景時・仁田忠常らに火攻めにされ、自害したと伝えられますが、その死去に関する確かな史料はありません。そのため、修善寺では死なずに、越前まで落ち延びたという説もあります。

源義朝は、河内源氏の流れで、八幡太郎源義家の子の源義親の五男、為義の長男です。父が九州で朝廷に反抗し、討伐されたため、その後を継ぎましたが、東国(関東地方)育ちで、彼の代から河内源氏の基盤が関西から関東に移ります。義平・朝長・頼朝・義門・希義・範頼・全成・義円・義経らの父です。1156年の保元の乱の際に清盛とともに後白河法皇方となり、父や弟らと戦って勝利し、乱後、左馬頭に任じられます。

しかし、戦功に代えての助命嘆願にもかかわらず、父の為義や兄弟の多くが処刑され、更に清盛より低い官位に甘んじたことから大いに不満を持ちます。後白河法皇の側近の藤原信西から冷遇されたため、1159年、義朝は信西と反目している藤原信頼と図って藤原信西、および平清盛・重盛父子を滅ぼして政権を奪取しようと、平治の乱に臨みますが、敗れます。その後、息子達や、家臣の鎌田政清、斉藤実盛らを伴い、東国を目指しますが、尾張国にたどり着き、家来の長田忠致の下に身を寄せて、入浴中に長田父子に襲撃され暗殺されてしまいます。後に、将軍頼朝の父を殺害したという理由で、長田一族は処刑されます。

源義仲は、清和源氏の一族で、源為義の孫、義賢の息子で、幼名は駒王丸です。義朝の甥、頼朝・義経の従兄弟にあたります。祖父の源為義と伯父の義朝が対立関係になった時、為義の命を受けて本拠地の京都から関東に下った義賢の次男として武蔵国に生まれます。父が甥の源義平に討たれた後、幼少の義仲は信濃に逃れ、畠山重能などの援助で木曽谷の豪族であった中原兼遠の庇護下に育ち、通称を「木曽次郎」と名乗っていた所から木曽義仲の名でも知られています。妻は中原兼遠の娘で、戦場で活躍し女傑として有名な巴御前です。1180年、清盛と対立していた後白河法皇の皇子である以仁王が全国に令旨を発し、源行家が全国で挙兵を呼びかけると、義仲も呼応して挙兵しました。
翌1181年、越後から攻め込んできた城助職を千曲川横田河原の戦いで破り、上野国(群馬県)まで進みますが、関東地方で挙兵した頼朝軍には合流せずに北陸道に進みます。北陸では逃れてきた以仁王の子を北陸宮として擁護し、北陸を勢力圏として固めた義仲は1183年に越中国砺波山の倶利伽羅峠(富山県・石川県の県境)で平維盛が率いる源氏追討軍を破り、同年のうちに京都に進軍して平家を西走させます。

京都に入った義仲は、従五位下左馬頭に任ぜられますが、京都の治安回復に失敗し、やがて後白河法皇とも対立します。平家を追撃して山陽道を進み、備中の水島の戦い(岡山県倉敷市)で敗れます。まもなく法皇を幽閉して政権を掌握し、数百年ぶりの征夷大将軍に就任しますが、頼朝と敵対し、1184年1月、義経軍に宇治川で敗れて逃亡し、加賀国粟津(石川県小松市)で討ち死にします。

武蔵坊弁慶は、熊野別当・湛増の子で、紀伊国出身だと言われますが、詳細は不明です。元は比叡山の僧兵で、寺を追われて、京の市中で刀狩をしていました。義経に清水観音の境内で出会い、敗れて家来となります。この出会いが、伝説化し、五条大橋の上と伝えられますが、その頃、まだ橋がかけられていなかったと言います。その後、平家追討や奥州逃避行に従い、各所でその知略・怪力によって義経を助けます。義経が討たれた、衣川の合戦での壮烈な殉死の様子は「弁慶の立ち往生」として有名です。
講談などでは豪傑として名高いが、その生涯については、ほとんど分からないままです。しかし、『平家物語』を初めとした創作の世界では主役級の活躍をしています。



歴史上有名な合戦場面である「鵯越え(ひよどりごえ)の逆落し」については、はっきりとしたことは分かっていません。義経が崖の上から平家軍の背後に奇襲攻撃をかけて、敗走させたことは史実ですが、その場所については、いろんな説があります。
代表的なのは、神戸市北区〜兵庫区の鵯越あたりから、明泉寺・夢野・長田方面へと、平家軍の中央を突破したという説と、鵯越に向かう途中から、白川・多井畑を経て、鉄拐山から獣道しかないような、急斜面の須磨区の一ノ谷から下りて攻めた、という2つの説があります。



武蔵坊弁慶は古くから豪傑の代表として一般庶民にまで人気があり、彼の名に因んだ諺も沢山あります。


義経が兄の頼朝に追われて、奥州の藤原秀衡の庇護を求めますが、間もなく病没し、その息子の泰衡に裏切られます。義経主従が宿舎としていた衣川の館を攻められた際に、弁慶が群がってくる敵兵を次々と倒すが、ついには無数の矢を全身に浴びて、大薙刀(なぎなた)を杖にして仁王立ちのままで息絶えた、つまり「立ち往生した」と伝えられています。このことから、ものごとが行き詰まって、進退窮まり、処置のしようがないことの喩えとして使われるようになりました。
なお、この立ち往生については法医学的な見地から議論があり、著しい肉体疲労時に矢が刺さり、即死した際のショックからくる即時性死後硬直ではないかという意見もありますが、真偽は不明です。

向こう脛には神経が集まり、非常に痛みを強く感じる急所なので、弁慶のような豪傑でもここを打たれたら、痛くて涙を流すだろうということから、急所の代名詞として用いられます。なお、これに似た急所の代名詞として「アキレス腱」があります。ギリシャ神話の不死身の英雄、アキレウスの唯一の弱点が踵の筋であったところから、これを知ったパリスに野で射られて殺されます。

弁慶が戦さの際に持参したという武器で、のこぎり、大槌、斧、薙刀、鎌、熊手、太刀の7種類であると伝えられています。そこから、仕事に必要な装備一式を「七つ道具」と呼ぶようになりました。現在でも、ニュース報道では、「選挙の七つ道具(たすき、腕章、鉢巻など)の準備が整った」というように言います。

家の中では威張っているが、外に出ると意気地がなく、大人しい人間のことを指して、こう呼びます。通常、短くして「内弁慶」と言います。引きこもりタイプの子供が家庭内暴力というニュースなど芳しくない場合によく使われます。最近では、ネット上でのみ威勢がいい人間のことを「ネット弁慶」と呼ぶこともあります。

「弁慶が薙刀を持って刺し殺した」という文を「弁慶がな、ぎなたを持ってさ、し殺した」と区切り(読点)を間違えて読むことをこう呼びます。




「茶房チックタク」は、金の湯と有馬の工房の真ん中に新規オープンしたお店です。店内には、「ピンボール」なども置かれ、昔懐かしいレトロ調の雰囲気に包まれています。
ハヤシライスやチキンライスなどの軽食を頂けます。チキンライスに、サラダとスープ、温泉玉子のセットが850円です。チキンライスにお好みで、温泉玉子を絡めて食べるのがお奨めです。とってもおいしかったです。

住所 神戸市北区有馬町820
TEL 078-904-0512
定休日 火曜日
営業時間 10:00〜15:00





Cafe&Kitchen「風花」は、昨年の秋に有馬温泉駅前にオープンした可愛いお店です。串カツやオムライス、カレーライスの他に、モーニングセット、ランチセットなどがあり、お気軽にお楽しみ頂けるお店です。

住所 神戸市北区有馬町1297-1
TEL 078-904-3555
定休日 水曜日
営業時間 10:00〜22:00




有馬ナビ如月号では、「源平の合戦・後編」として、須磨地区の観光スポットをご紹介しました。次回の弥生号は、「有馬温泉 再発見!」についての特集号です。冬の有馬温泉の街並みにも風情があります。神戸〜有馬温泉にぜひお越し下さい。(2005.01.25)

※このページは2005年2月に発行されたものです。
最新の有馬温泉と周辺観光地の情報は『龍泉閣日記』をご覧ください。



兵庫のホテル・旅館案内  

注)営業時間や料金などの情報は、発行された時点のものです。
詳しい情報は各施設にお問い合わせください。リンク、もしくはTEL番号をご参照ください。