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京町筋を南へ下り、
国道2号線から京橋を渡ると、 新港第一突堤基部の緑地の北角に、神戸港築造のきっかけをつくった網屋吉兵衝(1785〜1869)の顕彰碑が建てられています。
彼は、丁稚奉公からたたき上げで、呉服商を営み、72才になってから、長年夢見ていた船たで場(現在のドック=船底についた貝殻や船虫などを焼いて船の修理をする所)の建設に着手しました。
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私財を投じ、1855年に竣工しました。1863年、将軍家茂が兵庫港を巡視したときに、拝謁し、お褒めの言葉をいただきました。その後、負債返済のために「船たで場」の所有権は神戸村に移され、彼はその一支配人となりましたが、まもなく、海軍操練所の施設として活用されました。
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京町筋を南に向かって歩き、レトロな旧居留地街を抜け、国道2号線を越えた辺りから東の神戸税関にかけて、17,130坪に及ぶ広大な海軍操練所がありました。国道2号線のメリケンパーク入り口に、みなと公園という小さな公園がありますが、ここに重さ10トンに及ぶ錨(いかり)を用いた「神戸海軍操練所跡碑」が建っています。
これは、神戸の開港、発展のさきがけとなった海軍操練所を記念して、1965年に神戸の財界や港湾関係者の方々が旧軍艦の錨を兵庫県に寄贈し建てられたものです。巨大な錨の横にある書籍を開いた形の石碑には操練所創設の由来が書かれており、神戸開港100周年の1968年に建立されました。ビル建設工事のため、1991年頃に一時的に撤去されていましたが、10年後の2001年末に復活し、再び一般に公開されるようになりました。
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みなと公園から少し東に向かって歩くと、神戸海軍操練所記念碑、つまり「海軍営の碑」および、第4代兵庫県知事でもあった外務大臣、陸奥宗光の顕彰碑が並んで建っています。ただし、ここにある「海軍営の碑」は、諏訪山公園内の金星台に現存する実物の碑を模して1973年に建立されたレプリカです。
なお、神戸市立博物館に、葵の御紋の入った海軍操練所の屋根瓦が保存されており、「旧居留地」に戻る途中で見学できます。
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夢かもめのハーバーランド前駅で下車し、北にしばらく歩くと、閑静な住宅街の中に勝海舟の寓居邸があります。現在でも住居として現存していいます。海舟は、海軍操練所の建築が終わるまでは、ここに仮住まいしており、龍馬も何度か訪れたと言われています。 |
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海舟は海軍操練所内に碑を建てようとしましたが、志半ばで操練所は閉鎖となりました。完成していた「海軍営之碑」という高さ2mもある大きな碑は、友人であった神戸の豪商、生島四郎太夫に預けられ、海舟の意向から一時は生島の邸宅内に埋められていました。
この碑は、半世紀の後に、1915年に土中から掘り起こされ、神戸港が一望できる高台にある中央区の山手にある諏訪山公園内の金星台に現存しています。風雨にさらされ、読みにくくなっていますが、
海舟の直筆で書かれた碑文が見られます。 |
 「金星台」の名前の由来
1874年12月、 太陽・金星・地球が一直線に並ぶ「金星の太陽面通遇」という現象をフランス人天文学者ジャンセン氏らがこの地で観測したことから「 金星台」と呼ばれるようになりました。また、
ここから10分ほど登ったところにある、 再度山ドライブウエイの「ビーナス・ブリッジ」という名前の由来にもなっています。 |
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地下鉄海岸線「夢かもめ」の始発駅は、JR三宮駅南にある「三宮花時計前駅」です。駅の少し南にある東遊園地に行ってみると、公園の脇に加納宗七の銅像があります。彼は、紀州藩士で竜馬暗殺後、同藩の陸奥宗光が引き起こした天満屋事件にも参加しており、新撰組と乱闘しています。
三宮の南あたりは明治初期まで布引の滝から現在のフラワーロードを生田川が流れ、たびたび氾濫したため、西隣の外国人居留地の住民から苦情が絶えませんでした。そこで、一商人となっていた加納宗七は、その流れを新生田川に付け替えるという治水事業をわずか3ヶ月で完成させた上に、河道を幅18mの道路に、また両側を宅地造成して分譲し、現在の神戸市街地の礎(いしずえ)を築きました。銅像の横には陸奥の字で「加納宗七」と刻まれています。埋め立てられた旧生田川のあたりは、加納町と名付けられました。
加納町3丁目の交差点わきには彼の功績を称えた石碑が立っています。 |
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「夢かもめ」の次の駅、旧居留地・大丸前駅で降りて、地上に出ると直ぐ傍に小さな三宮神社があります。1867年1月、備前岡山藩兵と外国人兵が衝突した「神戸事件」が発生した場所です。今でも神社の境内に当時の大砲が安置されています。
1868年1月、明石に宿泊していた岡山藩の家老日置氏の軍勢、約450名および大砲方を率いた一軍が11日午後2時頃、三宮神社前に差しかかったときに、備前藩兵の隊列をフランス水兵が横切ったことから紛争となり、一時は、外国軍隊が神戸の中心部を占拠するほどの大事件に発展しました。結局、明治新政府は、その隊列の隊長であった備前藩士の滝善三郎を切腹させて、ようやく解決しました。
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三菱重工神戸造船所内に勝海舟設計の砲台が保存されています。大砲は1度も設置されたことがないようですが、重厚な石垣で作られた砲台が当時の姿のままで見ることが出来ます。ただし、民間企業の工場敷地内にあるので、見学の際には、事前に問い合わることお奨めします。
1863年、外国船に対する国防として兵庫と西宮に4つの砲台(和田岬、湊川崎、西宮、今津)が造られました。1864年9月にできた和田岬砲台は、直径約15m・高さ11mもあります。砲台を守るために星形の砦も造られ、建設費用は、現在の貨幣価値では、約25億円にもなりました。和田岬砲台が実際に使われることはありませんでしたが、大砲の試し打ちが行われたことが分かっています。 |
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